「――カナデさん」
遠い昔。まだ幼かった自分が、“I'll”初代リーダーであるカナデにふと尋ねたことがある。
「“I'll”とは、どういう意味ですか」
陽だまりの中、幼いメモリアをその腕に抱いて柔らかに笑んだ彼は、確かに答えたのだ。
「あなたのそばにいます、という意味だよ」
そう、確かに。
+++
政府軍との戦いから……ジョーカーの死から、数日後。
メモリアはあれ以来、自室に引きこもっていた。
当初は自らも後を追おうと自害を図っていたが……ハリアたちにその都度阻止されたことで、諦めたようである。
ミカエルは神妙な面持ちで、メモリアの部屋の扉を叩く。
返事はない。彼はそっとその戸を開けた。
カーテンを締め切った、薄暗い部屋の中。亡くした彼の物だった寝具に座り、その人は虚空を見つめていた。
「……リアくん」
彼の傍らにそっと寄り添うミカエル。冷え切ったメモリアの手を握ると、彼がぴくりと反応をする。
唯一無二を失ったメモリア。彼とジョーカーの間に何があったのか、ミカエルにはわからない。
――あの、雨の日。二人を迎えに行ったはずのハリアは、一人だけを連れて戻ってきた。
ジョーカーは死んだ。
淡々と告げられたリーダーの言葉を、ミカエルはもちろんフィーネたちも一瞬理解ができなかった。
なんで、と呟いたのは、確かゼノンだった。
それから、すすり泣く声と、問い詰める声とが溢れ返ったのだ。
ミカエルはそれらを聞きながら、メモリアを見ていた。
――泣き腫らした顔で、心を失くした顔で、彼はどこも見ていなかった。
「……リアくん、いい天気ですよ」
締め切ったカーテンを開ける。そっと窓を開ければ、明るくなった街の喧騒が部屋に満ちた。
アイルの面々は、それぞれ新しい道を歩き始めている。
他の大人たちと共に街をまとめる者、馴染みの店を手伝う者、歌で他者を癒やす者。
それぞれが思うように、やりたかったこと、叶えたかった夢を追いかける。
皆が望んでいた世界。希望が溢れる未来。
それが、眼下の街で実現しているのだ。
――ただひとり、時を止めたように膝を抱えるメモリアを除いて。
+++
丘の上に、ざあざあと雨が降る。
ここは、彼の心象風景。ココロの奥底。精神の水底。
「……メモリア」
そっと、その名を呼ぶ。
唯一無二を喪った場所で、蹲る彼の名を。
「……どうして」
彼が、短く声を上げた。蒼い髪の少年は、じっとその続きを待つ。
「どうして、たすけてくれなかったんだ」
「……それは」
言葉に詰まる少年に、彼……メモリアは尚も言い募る。
「どうして、なんで、アイツを止めてくれなかった!!
なんで……なんで、ジョーカーは……っ!! 何なんだ、お前はッ!!」
八つ当たりに近い慟哭。その哀しみを受けて、少年はゆるゆると首を振った。
「……オレにできるのは、対話をすることだけ。【魔王】の凶行は止められない。
無理に介入をすれば……【魔王因子】のココロが、余計に壊れてしまうから」
そうして少年は、その深海のように青い瞳を閉ざす。
「……“今”よりも未来の時代の、【神族・魔王】。
それが……オレだよ」
「……未来の、【魔王】……?」
少年……ナイトメアの言葉に、メモリアは怪訝そうに眉を寄せた。
未来の【魔王】がなぜ、と目線で訴えると、彼はふわりと笑んだ。
「きみを、助けたかった。きみを未来の【魔王】にしたくなかった。
ううん……心が壊れて、【魔王】に乗っ取られるのを、防ぎたかったんだ」
ひどい、エゴだけれど。
そう語る、痛みを湛えたようなナイトメアの声。
余計なことを。そんなメモリアの呟きは、雨音にかき消された。
「……結局、お前の足掻きは無駄だった。ジョーカーは死んで……オレは、もう、立ち上がれない」
見上げた空は、いつまでも鈍色で。降り続ける雨に、メモリアの心はどんどんと侵食されていく。
いつの間にか、蒼い少年は消えていた。
(ジョーカーを喪って、どうやって生きていけばいいんだ)
彼を殺した自分には、生きる価値なんて……きっとないのに。
+++
――季節は廻る。
政府軍との戦いから、半年が過ぎた。
連日祭り騒ぎだった街も落ち着き、住民たちは穏やかな日々を過ごしていた。
そんな頃だった。相も変わらず部屋に引きこもるメモリアが、【魔王】に関する話を耳に入れたのは。
「【魔王】を倒す旅をしている奴がいるらしい」
家族の誰かが齎した情報に、動かなくなったメモリアの心はほんの少し反応する。
【魔王】の討伐。それが実現するかはわからない。
けれど……この身には、右目には、未だにあの男の魔力が残されている。
今の【魔王】が倒された場合、自分が次代の【魔王】になるのか。それともあの少年なのか。
わからないが、ただ、なんとなく……これ以上、【魔王】に大切なモノを奪われたくないと、そう、思って……――
「――リアくんッ!!」
紅い右目から溢れる同じ色の液体と、遠のく意識、名を呼ぶ天使の声。
唯一無二の最愛と同じ場所へ逝けるなら……もう、それでも良かった。
- - - - - - - - - - - - - - - -
――夢を見た。遠い遠い、昔の夢だった。
温かく逞しい父親の腕の中、兄貴分であるハリアが彼に何か問いかけている夢。
「カナデさん」
幼さを含んだ兄の声。父に抱かれて微睡むメモリアには、それが何かはわからなかったけれど。
優しい父の声を、柔らかな兄の声を、久しぶりに思い出した。
在りし日の情景。遠い日の残照。
メモリアは無意識に父へと手を伸ばした。
……不意に、掴まれる腕。
しっかりと伝わるその感覚に、メモリアの意識はゆっくりと覚醒して――
- - - - - - - - - - - - - - - -
「――リア!!」
目を醒ますと、メモリアの目の前には怒ったような……それでいて悲しげな表情を浮かべた兄……ハリアの姿があった。
夢で見た姿よりも大きな彼に、ああ、自分はまた死ねなかったのか、とメモリアは目を細める。
包帯が巻かれているのか、右目は何かに覆われて見えないけれど、痛みはなかった。きっと、ミライたちが治療を施したのだろう。
「……兄さん」
起き上がる気力もないまま、ふとメモリアは兄を呼んだ。
「……なんだ」
思いの外はっきりとした声だったからか、彼はどこかほっとしたような声音で短く返す。
どれぐらい眠っていたのかはわからないが、気を失う直前にそばにいた天使は、今はいない。
その事にどこか安堵しながら、メモリアは言葉を紡いだ。
「……昔……父さんと、何を話して、いた?
オレが……小さかった頃……」
その問いに、ハリアが息を呑む。
ジョーカーが死んでから今まで、メモリアが意味のある言葉を発したことはなかったからだ。
ただずっと、懺悔をするように……死なせてくれ、もう嫌だ、と繰り返し呟いていたことが、印象的だった。
だからハリアはメモリアに視線を合わせ、ゆっくりとその質問に答えた。……彼のこころを、繋ぎ止めるように。
「……“I'll”の名の意味を、聞いたんだ」
「“I'll”の……いみ……?」
生来の青が、ハリアを映す。ハリアはそれに頷いて、彼の亡き父から聞いた“意味”を口にした。
「“I'll”とは……『あなたのそばにいます』、や『誓い』という意味があるんだそうだ。
カナデさんが名付けて……死んだ者も死にゆく者も生者も、みなそばにいる、という想いが込められているのだ、と」
「みんな、そばに……」
兄の言葉に、メモリアは大きく目を見開く。それからどんどんと、その青から涙が溢れていった。
「――……っ!!」
顔を腕で覆って、静かに泣くメモリア。
ハリアはそっと、その銀の髪を撫でたのだった。
+++
――数日後。メモリアはハリアたちの目を盗んで、町外れの丘に来ていた。
お気に入りだった場所。ジョーカーを喪った場所。彼の痕跡は、あの日の雨が洗い流してしまった。
メモリアは地面に座り、空を眺める。
(空には死んでいったみんながいる。母さんが教えてくれたこと)
ぎゅっと手を握りしめる。血が流れる感覚が、手のひらに伝わる。
(死んだみんなもそばにいる。……“I'll”の意味。父さんの、言葉)
「……生きるって、難しいよ……父さん、母さん……」
目を閉じる。空の色も、街の風景も、何も見ないように。
……けれど、不意に聞こえた足音に、メモリアは顔を上げる。
視線を動かすと、街から続く坂道の上で、一人の男が蹲っていた。
長く黒い髪が、さらりと肩から零れ落ちている。
「――……おい」
気がつくと、メモリアは彼に声をかけていた。
「……え……?」
「……具合が悪いのか? そもそもお前は誰……だ……」
ゆるゆると顔を上げた男の顔を見て、言葉は途中で途切れてしまう。
瞳の色こそ違えど、その風貌は――【魔王】ヘルのものと、瓜ふたつだったのだ。
男は首を傾げながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……いや、大丈夫……だ。……それより、オレに何か……」
言いかけた男は、ハッと何かに気づいたように髪を触る。
顔色を悪くし後退る男に、メモリアは「すまない」と首を振った。
「……少し、知り合い……に似ていたものだから」
……そうだ、あの【魔王】がこんな……ヒトらしい動作をするわけがない。
考えられる可能性は、二つ。他人の空似か、それとも――
「……そう、か。……その……えっと」
思案するメモリアに、男は耳を手で覆いながら言葉を探しているようだった。
エルフ種によく似た長耳と、黒い髪。
……死んでしまった家族を、思い出す。
「……ダークエルフか、お前」
「ちがっ……うんだけど、オレもよく……わからなくて」
自身の問いに俯いてしまった男へと、メモリアは首を振る。
……こんな風に誰かを案じたり、声を交わすのは……何だか久しぶりだった。
「……まあ、何でも構わない。……この街は、オレたちは、ダークエルフだろうが何だろうが受け入れる」
「……え?」
「……オレたちの家族の一人も、ダークエルフだった。死んで、しまったけれど」
だから、だろうか。家族の……ヒュライの話を、口に出したのは。
握り締めた拳に気づいたのか、男は気遣わしげに呟いた。
「……大切、だったんだな」
「ああ。……どんな姿になっても、ヒュライは……あいつは、オレたちの家族だった。
……結局、最後の最期まで……その心を、救ってやることは……できなかったけれど」
そよぐ風に銀髪を揺して、空を見上げる。
ハリアたち家族は、死んだことで彼が救われたのだと言っていた。
(本当に……そうだろうか? ヒュライは、本当に、救われたのか……?)
……唯一無二も、死が救いだと言っていた。
(でも、オレは……生きていてほしかった。クオンにも、ヒュライにも、キリクにも……ジョーカーにも)
生きて、その心を救いたかった。生きていたいと、言ってほしかった。……救われたいのは、どちらだったのだろうか。
(……それに、死が救いなら……どうしてオレは、死なせてもらえないのだろうか?)
胸中を掠める絶望に目を背け、メモリアは黙ったままの男へと目を向ける。
……相も変わらず酷い顔色だ。街へ連れて行って、ちゃんと休ませるべきだろう。
「……大丈夫か?」
「っえ、あ……ああ」
明かりのない暗い夜の瞳。自分とよく似た悲しみと絶望が綯交ぜになった色が、真っ直ぐにメモリアを貫く。
「お前は……もしも、自分が……――」
あるいはそれは、自分自身を映し出す鏡だったのかもしれない。
「自分が、知らない内に、人を殺めていたら……どうする……――?」
「知らない内に……人を……?」
その懺悔の言葉に、メモリアは目を見開く。
けれど、その反応を誤解したのか、男は慌てたように首を振った。
「あ……ごめん、何でもない。忘れて……」
「……待て。……その状況……オレにも、覚えがある」
くるりと踵を返して立ち去ろうとする男の手を掴み、メモリアは囁いた。
……何故か、彼には話しておきたくなったのだ。
自身によく似た瞳の、彼に。
「え……!?」
「……家族を、大切な人を、この手で殺した。知らない内に……ではないが……少なくとも、オレの意思ではなかった。
大切な人を殺した時は……気がつけば……そう、なって、いて」
驚く男に、メモリアは俯きながらもそう語る。
空色の瞳から、ぽろりと涙が零れた。
……半年の月日が過ぎても、あの日々の痛みは消えない……癒えない。
「っ殺したくなんて、なかった……! みんなに、生きてほしかった……!
みんなを、アイツを殺したオレなんて……生きている資格なんかないって……死にたくても、でも、他の家族がそれを許してくれなくて……っ!」
男の手を握りしめたまま、崩れ落ちるメモリア。
その身に抱えた激情に、男はそっと寄り添った。
生きてほしかった。そばにいて欲しかった。これからもずっと、笑っていてくれると……信じていたのに。
彼らを殺した自分は、何故生きているのか。
(同じところに、逝きたい。ジョーカーたちがいないのに、生きてる意味なんて……)
「……そう、だよな。辛い……よな、やっぱり。
……オレ、怖いんだ。いつか……今一緒にいてくれるみんなを、殺してしまうのかもしれないと……思って……」
男は泣き笑いの表情で語る。
“知らない自分”が犯す罪に、怯えている。
「……お前はさ、その家族の人たちから愛されてるんだよ。生命を大切に思われてる。
死なないでほしいって、願われてるんだな」
涙で歪んだ青目に、男は羨ましい、と言葉を漏らした。
……愛されている。大切に、思われている。
……生きることを、願われている。
(オレが、ジョーカーたちの生を、願ったように……?)
「っお前にも……仲間が、いるんだろう? だったら、お前も……」
「みんなは、オレの“無意識”のことを知らないから。
……きっと、知ったら嫌われる。……殺されるかも、しれない。
でも……みんなを殺してしまうより……そっちの方が、ずっといいかなって」
涙を拭いながら言葉を紡げば、男は諦めたように力なく笑う。
メモリアはしばらく彼の顔をじっと見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「……そう、だな。そうかも、しれない。……けど……」
そこで一度言葉を切り、男の手を再び取って自身の額に当てる。
祈るようなその仕草は、よく母がしてくれたものだった。
怖くないよ、大丈夫だよ、と伝える母の声を思い出す。
「でも……死んでほしい、とも願われていないはずだ。オレも……お前も。
誰かが死ぬのは……辛い、ことだから」
「願われて……ない……。……でも、オレは……」
そうだ、誰かが死ぬのは辛いこと。そんなことは、身を持って知っている。
(オレが死ねば、ミカや兄さんたちの心に……少なからず傷を与えてしまう)
ならば、生きるしかないのだ。死んでしまった、みんなの分まで――
「絶望に、負けてはいけない。オレも……生きるから。
だから、お前も」
“無意識”により、人を殺めた彼と自分。
メモリアの青い目に、男の黒が映る。
罪は消えず、心の傷も癒えないけれど……それでも。
「生命を、諦めるな。絶対に。……殺めてしまった人たちのためにも」
小さな丘での、二人だけの約束。
男の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
男は、繋いだままだったメモリアの手をそっと握り返す。
「……お前、名前は?」
「……メモリア。メモリア・クロイツだ」
そう言えばお互い名乗っていなかったな、と思い、メモリアは名を告げる。
それを聞いた男は、ふわりと笑んだ。
「そっか。オレはユナ。ユナイアル・エルリス。
……話を聞いてくれてありがとう、メモリア」
どこか落ち着いた、二人の雰囲気。
それを見計らったかのように、聞き覚えのない声が鼓膜を震わせた。
「あっユナくーん!」
メモリアが坂の下に視線を向けると、共同墓地にハリアと見知らぬ男女がいた。
「もう、ユナってば! 突然いなくならないでよ!」
「あはは……その、ごめん」
慌ててフードを被って坂を降りるユナに、女性が腰に手を当てて怒っている。
和気あいあいとした雰囲気に見える彼らの様子を眺めながら、メモリアも坂を下る。
……と、目の前にハリアが立ち塞がった。
「……リア、勝手に出歩くな。ミカたちが心配するだろーが」
怒ったような表情に、メモリアはさっと視線をそらす。
メモリアが無垢な天使に弱いからか、ハリアたちは事あるごとに彼の名を出してその言動を縛ろうとする。
それが自身の命を案じてのことだと理解しているから、異を唱えるつもりもない。
……例えそれを、重苦しく感じても。
+++
リースト、と名乗った緑髪の少年に、ミカエルと共に街を軽く案内をする。
リーストはやたらとこの街のことを知りたがったが、無口なメモリアの代わりにミカエルが「自分のわかる範囲でいいなら」と説明役を買って出てくれた。
二人の会話を耳に入れながら、その中に気になる言葉を見つけた。
“黒い髪のエルフ”。
それはメモリアも知っている。政府軍の生き残りが、その男がユウナギ・ロストを殺したのだと告げていたと、ハリアたちから聞いたからだ。
……ああ、なるほど。途端にメモリアは理解した。
先ほど出逢った少年も、“黒髪のエルフ”だった。
身に覚えのない罪に怯える少年。死を望み……覚悟してしまった、少年。
(……【魔王】、か)
彼の容姿は自分の知る【魔王】ヘルと瓜ふたつだった。
知らない罪。黒髪のエルフ。【魔王】。
彼がどれだけのものを抱えているかはわからない。憶測の域を出ない。
メモリアに出来ることは、何もない。……それでも。
「オレも生きるから、お前も」
告げた言葉に、触れたぬくもりに、ユナは頷いてくれた。
……メモリアは、そんな彼を信じたかった。
妙な共通点を持つ自分たち。その片割れが死んでしまうのは……なんだか、悲しいから。
街を去る彼の背を、少年は祈るような気持ちで見ていた。
+++
——季節は移る。
遠い王都から、“第九十五代目ロマネスク国王”が【魔王】を討伐した、との知らせが、クレアリーフにも届いた。
勇敢な王を讃え、王都はかつてのクレアリーフのように連日祭り騒ぎなのだとか。
そんな家族たちの会話を聞いたメモリアは、ユナに思いを馳せる。
(……あいつは、ちゃんと生きているのだろうか)
どこにいるかもわからない彼。
せめて彼が笑って生きていることを願うしか、できなくて。
すっかり伸びた銀の髪を風に遊ばせ、自室の窓から空を見上げる。
雲一つない快晴。けれどそれに、妙な胸騒ぎを覚えて——
「っリアくん!!」
静寂を切り裂く声。名を呼びながら部屋のドアを開けたのは、ミカエルだった。
階段を駆けてきた彼の息が整うのを待ち、メモリアは用件を問う。
「それが……その……大変なことが、起きてまして……!
と、とにかく来てくださいっ!」
ひどく動揺する彼に首を傾げながらも、その後を追うメモリア。
心臓の音が、やけにうるさい。
リビングのドアの前で立ち止まったミカエルは、一度深呼吸をし……震える手で、それを開けた。
「……——ッ」
キイ、と音を立てながら開かれる扉。それと同時に飛び込んだ光景に……メモリアは、息を詰める。
音に反応して振り向いた金色の髪。こちらを見つめる、蘇芳色の瞳——
「……メモリア」
聞こえた声に、血の気が引く。忘れられない、低く柔らかな声。
気遣わしげなハリアたちの視線にも気づかず、メモリアはその場に崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまった。
「メモリア!!」
家族の声。駆け寄る足音。それらを遠く感じながら、メモリアは震える自身の手を見やる。
あの日、“彼”を貫いた感触が蘇る。手が、紅く、紅く、血塗られて、見えて——
(……ああ、そうか)
眼前の光景に震える自分とは裏腹に、別の自分が冷静に考える。
アレは……きっと、自分の“業”だ。
ひやりとした手が自身に触れる。桜散だ。
悲しげな表情が、メモリアには自身を責めるもののように思えて。
(赦して、なんて、言わない。……言えない。……だから)
ゆっくりと立ち上がる。
家族たちの手をそっと離し、目の前の彼へと向き合う。
(——これがオレの、【魔王因子】としての罪ならば……答えは、ひとつだ)
「……オレの、せいだ。……だから」
あの時“彼”を貫いた剣を、魔力で生み出す。
息を呑んだ家族たち。名を叫んだのは、誰だろう。
走り出す。迷いはない。彼を殺すのは……二度目だから。
「メモリア——!!」
……けれど、その凶刃が彼を貫く前に、金属がぶつかる音が部屋中に響いた。
呆然と立ち尽くす彼を守ったのは、他でもない……桜散だった。
「何を……しているのですか、貴方は!!」
「何……と、言われても」
包帯を巻いていない方の目で、刀を構えた彼女を見る。
他の家族たちも、彼を守るようにその側に固まった。
「……そいつは、“人形”だ。桜散と同じ、“人形”。
……きっと、オレが創った。オレの魔力が、そいつを創った」
“人形”。人ならぬ存在。不死なるモノ。
生者が死者を想うがゆえに生まれた、実態を持った残留思念。
未だ原理は解明されていないと言うが……【魔王】のカケラだったメモリアは知っている。
その“制作者は、【魔王因子】の持ち主であるということを。
(きっと、桜散の“制作者”も【魔王因子】の持ち主だったのだろう)
「“人形”は“制作者”にしか壊せない。
“制作者”が死ねば、“人形”は永遠を彷徨うことになる。
……全部、桜散が教えてくれたことだ。……だから」
彼女の悲しみを知っている。永遠を彷徨う彼女を“I'll”に引き入れたのは、他ならぬ自分なのだから。
再び剣を彼へと向ける。立ち塞がる桜散と、何か言いたげな彼。知らない。聞こえない。……聞きたくない。
「あいつを殺して、オレも死ぬ」
二度と過ちを、犯さないために。
桜散と同じ悲しみを、彼に味合わせないために。
……けれど。
「リアくん」
メモリアの体に抱きつくことで、その凶行を止めたのは……ミカエルだった。
子どもの温かな体温が、血の気の引いたメモリアを暖める。
「そんな……そんな、悲しいこと、言わないでください。
だって、せっかく……せっかく、ジョーカーさんに、また会えたのに」
ポロポロと落ちる涙が、メモリアの服を濡らしていく。
仲間を喪ったことを、誰よりも悲しんでいた天使。
メモリアは力が抜けたのか剣を落とし、こちらを見る彼……唯一無二の最愛——だった男、ジョーカーに視線を向ける。
その眼差しも、声も、生前のものと変わらない。
なのに……メモリアは覚えている。
彼を貫いた感触を。……絶望を。
「……メモリア」
彼が……ジョーカーが、ゆっくりとメモリアに近づく。
その手が、頬に触れる。……冷たい。血の通わない、“人形”のぬくもりだった。
「あの時……死を願った僕だけど。君のことを、ひどく傷つけた僕だけど……。
……また、君に会えて……嬉しいよ、メモリア」
(死にたいと願ったのはジョーカーなのに)
殺したくなかった。ずっと側にいてほしかった。
自分勝手だ、彼は。殺してくれと懇願したくせに、そんなことを言うなんて!
(……いや、自分勝手なのはオレだ。ジョーカーの願いを捻じ曲げて……オレは……彼に、残酷な、ことを)
死にたいと願った彼に、永遠の命を与えてしまった。
ヒトとは違う、理から外れた存在にしてしまったのだ。
廻る。廻る。思考が定まらない。落ち着かない。
……息がうまく、できない。……どうして。
「メモリア!」
再び崩れ落ちた体は、もう立ち上がる気力などなくて。
消えないあの日の絶望。新たに生まれた、この絶望。
誰が悪い? 自分か、彼か?
身勝手だと、彼を罵られればよかった。
けれど、彼の願いを覆したのは自分だ。死んだ彼を想い続けた、自分なのだ。
(もう……いやだ)
そもそも——【魔王】のチカラを受け取った自分が、悪い。
この絶望の元凶は、紛れもなく……自分なのだ。
だから……メモリアは、ゆっくりと口を開いた。
「……お前は」
肯定してほしい。自分の手を、取ってほしい。
……終わりに、させて。
「……今も、まだ、死を願っているのか……?」
メモリアの言葉に、ジョーカーは彼に目線を合わせるために床に膝をつく。
それから息を吸い……それに、答えた。
「……本音を言うと、そう。
でもね……それほどまでに君が僕のことを想ってくれてたんだってわかったから、生きてみようかなって、思ってるよ」
君と、一緒に。
(——ああ、なんて、なんて残酷なのだろう)
ジョーカーはメモリアの生を願った。
自身の願いを覆したメモリアを、生かそうとする。
責めてくれたほうがよかった。
もう一度殺してくれと、願ってくれる方が……ずっとずっと、良かったのに。
(……ユナ)
脳裏に浮かぶ、黒髪のエルフ。【魔王】に近かった、優しい彼。
彼にかけた言葉が、呪詛のように自分を縛る。
(……オレは、お前にも酷いことを言ったんだな)
生きてほしいと。絶望に負けてはいけないと。
ああ——それでも。自分は、もう。
(ごめん、ユナ)
身勝手な自分を、ゆるして。
「……リア?」
剣を取る。戸惑うジョーカーと家族たちを横目に。
「……ジョーカー、オレは。
……ずっとずっと、お前のことを想っていたよ。
……殺したくなんて……なかった、のに」
それは呪い。生前からずっと想っていたのに、今更気づいたなどと言う彼への愛憎。
……流れる涙をそのままに、メモリアは手に持ったそれを、自身の体へと突き刺した——
「っメモリア——ッ!!」
赤く染まる視界。悲鳴。
……意識を、手放した。
+++
——沈む。沈んでいく。深い、深い、海の底。
目を開けると、蒼い髪の少年……ナイトメアが、いた。
「……ここは? オレは……死んで……」
「死んでないよ。まだ、生きてる。きみの家族が、たすけた。
ここは……オレの、精神空間。壊れかけたきみのココロを、連れてきたんだ」
生きている。
ナイトメアの言葉に、メモリアは瞳を伏せる。
もう……生きていたく、ないのに。
「……メモリア」
ナイトメアがメモリアの頬に触れる。
冷たい手。けれど、“人形”たちとは違う……血の通った、手。
「ひとつ……提案があるんだけど」
「……提案?」
「うん。オレは【魔王】。だから、【魔王】の魔力で生まれた“人形”を、壊せる。
……きみが望むなら、きみの側にいる“人形”を、二体とも壊してあげる。
……その代わり」
暗い、暗い深海の瞳が、じっとメモリアを見つめる。
冷ややかな手が、今度は包帯を巻いた右目に触れる。
「……オレにチカラを、貸して」
背後に潜む、深い闇。
かつて、【魔王】ヘルからチカラを受け取ったときのことを思い出す。
(……また同じ過ちを犯すのか、オレは)
自身が【魔王】のチカラを手にしたことが、全ての間違いだったのだ。
俯くメモリアに、ナイトメアはゆるく笑む。
「きみが躊躇するのも、わかるよ。それに、本当はゆっくり休ませてあげたい。
でも……今、オレたちの世界、“ローズライン”で少し困ったことが起きててね。
きみにちょっと手伝ってほしいんだ」
「……言うことを聞く手駒が欲しい、と」
「あはは。そこまでは言わないよ。きみが自分の目で世界を見て、自分の心で感じて動いてほしい」
同じ【魔王】でもヘルとは随分違うな、と内心驚愕する。
思えば彼はずっとそうだった。どうあれメモリアを助けようと動いていたのだ。
だったら、と手を伸ばす。
間違いかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。
だが……そんなもの、今更だった。
「……ナイトメア。お前の提案を、受け入れよう」
桜散に終わりを。ジョーカーに永遠の眠りを。
独りよがりなのは理解している。それでもメモリアは、それが最善だと信じたかった。
何より……“ここではないどこか”へ、逃げてしまいたかった。
(死を、許されないのなら。生きるしかないのなら。
……ナイトメアの駒として動いた方が、きっとずっと……楽だ)
ナイトメアが、メモリアの手を取る。
溢れる蒼い光が、水中の空間に乱反射する。
「……きみの中のヘルのチカラを、オレのチカラに変換したよ。
後で右目を見てみて」
光が収まったあと、ナイトメアはそう言った。
「それと、せめて家族にお別れを言うといいよ。
転移はそれからでも大丈夫だから」
そんな気遣いなどいらない、と跳ね除けようと思ったが、同時に天使の姿が思考を過ぎる。
せめて……彼には別れを告げるべきだろう。自分が連れてきた、自分の、希望。
そう思い直したメモリアは、静かに頷いた。
瞬間、意識が薄れていく。夢から醒める時のような感覚に、メモリアは素直に身を委ねたのだった。
+++
「——リアくんっ!」
泣きそうな声で、天使が名を呼んだ。
覚醒した意識と目で辺りを見回せば、案の定涙をその大きな瞳に溜めたミカエルが、メモリアを見ていた。
「だ、大丈夫ですか……!? 僕の最上級魔法とミライさんたちの治癒魔法で傷は治しましたが……その……」
そう言えばコイツの最上級魔法は回復特化の光魔法だったな、とどうでもいいことを考える。
俯くミカエルは、メモリアがその身を刺した時のことを思い出しているのだろう。
「……ミカ」
「は、はい……」
怯えたような声。責められる、とでも思っているのだろうか。
……事実、以前自死を止められた時はハリアやミカエルたちを随分と責めた覚えがあるので、当然と言えば当然なのだが。
「……オレは、どれくらい眠っていた?」
その問いに、天使はほっとした表情で返答する。
「リアくん、二日ほど眠っていたんですよ」
その後、ミカエルは様々なことを教えてくれた。
メモリアはハリアの許可なくジョーカーと会えないこと。
そもそも……“人形”となったジョーカーを見つけたのはミカエルであるということ。
「……ジョーカーさんのお墓参りに行ったら……丘の上に、あの人がいて。
驚きました。どうしたらいいかわからなくて、アジトに連れてきてしまいましたが……ごめんなさい、リアくん」
頭を下げるミカエルは、ジョーカーの名を出す度にメモリアの反応を伺うように見ていた。
けれどメモリアは凪いだ瞳で、「そうか」と返す。
「……お前は悪くない。悪いのは、オレだ」
天使を責めるつもりはない。悪いのは、全て自分なのだから。
小さく吐き出したその心情に、ミカエルは「そんなこと」と顔を上げた。
「そんなこと……ないです。だって、大切な人を想い続けることが悪だなんて……そんなの、悲しすぎます」
純真無垢な天使。兄を亡くしたことを悲しみながらも、前へ進む強さを持つ少年。
そんな彼が眩しくて……メモリアはそっと、彼から視線を逸らしてしまった。
しばらくしてミカエルは、メモリアが起きたことをハリアたちに知らせに行くと言って部屋を出ていった。
メモリアは横たえていた体を起こす。ミカエルたちの治癒魔法のおかけで、傷は塞がったようだ。
部屋に備え付けられている姿見の前に立つ。右目を覆っていた包帯を、ゆっくり外す。
「——……これ、は」
【魔王因子】の証であった紅い色は消え、生来の青に近い……けれどそれよりも暗い海の色が、右目に宿っていた。
(この色は……ナイトメアの瞳と同じ色、か)
ヘルのチカラをナイトメアのチカラに変換した、と彼は言っていた。ならば、これがその証拠だろう。
メモリアはもう一度包帯を右目に巻き、近づいてくる足音に耳を澄ませる。
やがて開いた扉から、ハリアとミライが室内へと入ってきた。
後ろには心配そうな顔のミカエルたち家族もいる。ジョーカーの姿は、なかった。
「……リア、痛いところはありませんか? まだ……横になっていた方がいいですよ。随分、血が出てしまって……だから……」
遠慮がちに声をかけてきたのは、姉貴分のミライだった。
気分がいいわけではないが、横にはならず寝具に座る。
ミライによる診察を受けながら、メモリアはハリアの軽い小言と心配した、という言葉を聞き流していた。
そんな彼を見ながら、ミカエルは不安げに胸元で手を組む。
彼の瞳は、どろりと濁っているように見えた。
ジョーカーの名を出しても、取り乱すことなく落ち着いていたが……その声音は、絶望を含んでいた。
ジョーカーを亡くした時のように、心が壊れてしまったような彼。
だからミカエルは、その夜メモリアの部屋を再度訪れた。
不安と心配を、胸に抱えて。
「……リアくん」
ベッドで横になっているかと思いきや、部屋の主はいつものように窓枠に腰掛けていた。
入口で佇む天使に、「入らないのか」と声をかける彼は……不気味なほど、“いつも通り”で。
ミカエルは深呼吸をし、彼の側へと近づいた。
「……リアくん、あの……」
「ミカ」
口を開いたミカエルを、その名を呼ぶことで遮るメモリア。
「……オレは、ここを出ていく」
「え……」
突如告げられた言葉に、ミカエルは絶句する。
出ていく? 誰が? ……メモリアが、ここを?
「な、んで……」
「……」
なぜ、と問うミカエルだったが……答えなど、わかりきっていた。
「……ジョーカーさんが、いるからですか……?」
メモリアは黙したまま。……それが、答えだった。
「リアくん……リアくん、僕は……僕、は」
「……困ったら、王都に向かうといい。……ユナたちが、そこで暮らしているらしいから」
かつて出逢った、黒髪のエルフとその仲間たち。
彼らの居場所をメモリアに教えたのも、ナイトメアだった。
そのことは口には出さず、メモリアは立ち上がる。
「ミカ。……世話になった」
短く告げて、彼は歩き出す。
何気ない動作で。日常の延長線で、ドアを開ける。
「っリアくん……!!」
呼び止める言葉を、ミカエルは持たない。
泣きそうな声で名を呼んだ天使に、かつて【制裁者】と呼ばれた少年は——淡く、微笑む。
それが、この世界で見た彼の最後の姿だった。
+++
——コツコツ、と廊下を歩く音が響く。
……異世界“ローズライン”。ナイトメアに導かれやって来たこの世界で、メモリアは新たな仲間と共に日々を過ごしている。
置いてきた天使や家族たち……そして何より、最愛だった彼を思わない日はない。
……それでも。
「あ、リアくん」
「……リオンか」
素性を隠し、【魔王】との関係も隠し、過去すら隠して生きるこの居場所は、ぬるま湯のように心地が良くて。
仮初の平穏でも、メモリアはこの日々を気に入っていた。
リオン、と呼んだ少年のような少女の隣に並び、メモリアは歩く。
世界を包む空は、変わらず蒼穹だった。
+++
——住み慣れた故郷を離れ、天使は今日、旅に出る。
理由は色々とある。
辛い出来事から逃げるように旅立った親友を探すため、そして何より、自分自身にできる“何か”を探すため。
街の入口、大きな城門の前に立つ。
見送りはない。誰にも何も告げずに、彼は行くのだから。
「……まずは王都を目指そうかな」
自身の面倒をよく見てくれた親友は、旅立つ寸前「困ったことがあれば王都を訪れるといい」と言っていた。
この国に生まれてからの十七年間、そういえば王都には行ったことがなかった、というのもある。
……そもそも、故郷から出たことすらなかったわけだけれど。
風が吹く。空はどこまでも青く澄んでいて、白い雲を流していく。
よし、と小さく気合いを入れ、眼前に広がる草原に、天使は足を踏み出した。
「みっくん」
ふと、聞き慣れた女の子の声が耳に届く。
振り向けば、黒い髪を風に遊ばせた着物姿の少女が、こちらを見ていた。
「……さっちゃん」
「……行ってしまうのですね」
淡々とした彼女の言葉に、天使はコクリと頷いて返す。
彼女は一度悲しげに目を伏せてから、柔らかに微笑んだ。
「そう、ですか……寂しくなりますね。
……でも、それが貴方の決めた道ならば……私は止める術を持ちません」
……リアに、よろしくお願いしますね。
そう言って、親友の名前を出した彼女には、何もかもお見通しなのだろう。
彼の旅立ちの理由も。親友がこの街を去った理由も。
「……さっちゃんも、お元気で」
“不死者”である彼女には、残酷な挨拶かもしれない。
それでも彼女は笑って、ええ、と手を振った。
「……たまには帰ってきてくださいね。
私、この街で待ってますから……ずっと、ずっと、何年でも、何十年でも……みっくんとリアのこと、待ってますから……!!」
泣き出しそうな声音の少女に、もちろん、と答えて手を振り返す。
絶対ですよ。そんな彼女との約束を背に、天使はいよいよ歩き出した。
これは最初の一歩。小さいけれど、大きな一歩。
(リアくん、この旅の果てに、君との再会を夢見て……――)
……それは、この星を覆うとある未来に繋がるお話。
けれどそれはまた、別のお話。
I'll -アイル- / After Story. 完