「おはよう、歩耶」
幼なじみの梨子が、ピンクの傘を差しながら笑った。
「今日から梅雨入りだってね」
隣を歩きながら、梨子は取り留めのない話を続ける。
雨。
しとしとと降り続くそれを、オレは見上げる。
(……兄さんがいなくなったのも、こんな雨の日だった)
五年前、いなくなった兄を思い出す。
彼がいなくなったのも、梅雨の時期だった。
「アユカ?」
聞こえた声に顔を上げると、目の前には梨子ではなく、赤い髪の少年がいた。
どうやらぼんやりしている間に授業は終わったらしい。
「どうしたの? ぼんやりしてたけど」
「……兄さんのことを、考えてただけだよ、チェシャ猫」
自らを【チェシャ猫】と名乗る包帯だらけの少年に、オレは緩く笑う。
空を映したような青い色の傘を広げる。
止まない雨の中、少年と並んで歩く。
「お兄さんいなくなったの、この時期だっけ」
「……ああ」
兄がいなくなって、途方に暮れていたオレの前に現れた、真っ白な【女王】とこの【チェシャ猫】。
以来、オレの日常は非日常に変わったわけだが、それはまあ、今は置いておこう。
ふと足元を見やる。
雨降る季節に咲き誇る鮮やかな花が、そこにいた。
「アジサイ、キレイだね」
再度聞こえた声に、また顔を上げる。
今度は梨子が、傘をくるくると回しながら笑っていた。
「もう、歩耶ってば、ぼんやりしすぎだよー!」
「ああ……ごめん」
ピンクと青の傘が並んで歩く。
猫はいつの間にかいなくなっていた。
「これは現実なのかな」
ぽつり、傘から水滴が零れ落ちた。
『さあ、どうだろう?』
答えたのは、蒼い髪の【眠り鼠】。
握っていた傘はいつの間にか、愛用の金属バットになっていた。
オレはバットを握りしめ、駆け出した。
『これが、夢なら……きみは、どうする?』
ぱしゃり。
水溜まりを踏み潰した音で、世界が眩む。
遮断機が音を立てて、電車は水を跳ね飛ばした。
「歩耶!」
遮断機の向こう側、いるはずもない兄さんが、手を振っていた。
ぐらり、霞む視界に映った空は、夏を描いた青空だった。
+++
「歩耶、熱中症で倒れるなんてビックリしたよ」
静寂が包む家の中、梨子が笑った。
木製の天井が見える。
自室のベッドに、オレは寝ていた。
「……いつから……兄さん、は……?」
「歩耶?」
不安げな梨子の顔が、オレを覗き込む。
「大丈夫? まだ寝ていた方がいいよ?」
彼女はそう言って、布団をかけ直す。
降り始めた雨の音が、部屋を満たした。
「わ、雨だ。 私、帰るね」
「あ……ああ」
いそいそと帰る支度をする梨子に、オレは曖昧に頷いた。
ふと、気になったことを尋ねてみる。
「なあ、梨子」
「何?」
首を傾げた幼なじみは、オレの方に向き直った。
「これが、夢なら……お前は、どうする?」
それは【眠り鼠】の問いかけ。
梨子は朗らかに、笑い飛ばした。
「決まってるわ。 起きればいいのよ」
立ち上がった少女は、オレを現実へ引き戻す存在なのだろうか?
「おやすみ、歩耶」
その言葉に、オレは意識を手放した。
雨音はもう、聞こえない。
雨ト夢。
(兄さんが、【ユメツナギ】という存在になっていることを)
(この時のオレは、まだ、知らなかった)
窓辺に一輪、紫陽花がゆらりと笑った。