「――アユカ!! 『おまつり』、行こう!!」
珍しく元気に、猫は紅い髪を揺らして笑った。
「……祭り?」
「近くの神社でー、おまつり! おまつり!」
少年の姿をした自称チェシャ猫から受け取ったチラシには、確かにこの付近にある神社で行われる祭りについての詳細が書かれている。
『なつまつり』
いなくなってしまった兄と、毎年一緒に行っていた……夏の風物詩が、今年も始まるのだ。
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艶やかな桃色の浴衣に身を包んだ幼なじみの少女……梨子と、その友人で爽やかな水色の浴衣を風になびかせている篠波 藍璃が楽しげに歩いている。
オレは彼女たちの後ろを歩きながら、色とりどりの出店を眺めていた。
篠波の幼なじみもまた、自分の兄と同じようにある日突然消えたのだと、梨子から聞いたことがあった。
オレは通う高校が違う篠波とはさほど仲が良いわけではなく、女子の情報網は敵に回してはいけない、と肝に命じたのはつい最近の話だ。余談だが。
「夏瀬くん」
「ん、何? なんか食べたいものでも決まったか?」
不意に篠波がオレの名字を呼ぶ。
焼きそばが食べたいなあ、と思いながら返事をすれば、彼女はツインテールを揺らしながら思い詰めた表情でこちらを見ていた。
「……藍璃、繭耶さん……歩耶のお兄さんが消えたときの話を聞きたいって」
「……ああ……悪いけど、オレ……気づいたら兄さんがいなくなってただけだし……」
梨子が間に入って説明をするが、オレはわからない、と首を振る。
彼女は彼女でいなくなった幼なじみの少年を必死に探しているのだろう。それはもう、痛々しいくらいに。
しかしだからといって、オレの“非現実”に巻き込むわけにはいかなかった。
非現実。そう、空気を読んだのか否かわからないタイミングで現れた……あいつらに。
「アユカ!! “カゲウサギ”だよっ!!」
ぐらり、ゆらり、と空間が揺らいで、目を包帯で覆った紅色の髪が現れた。梨子たちの姿は、ない。
……異空間。狭間の世界。幻想……まぼろし。
そう呼ばれるこの戦いの場は、現実には何ら影響を及ぼさないのでその点では非常に助かっている。
真っ黒のウサギ型の闇が、のそり、のそりと近づいてくる。
目すらない、それは完全なる闇……“カゲウサギ”。いつの間にか握っていた愛用の金属バットを、ウサギに降り下ろした。
人気のなくなった屋台の明かりに消えていく闇と、それでも際限なく出現してくるウサギ。
『ありす』
『アリス』
『“シロウサギ”は、見つかったかい?』
闇から響く幼い子供の声でオレを“アリス”と呼ぶそれを、バットで殴り付ける。べちゃり、と嫌な音を立てて彼らは潰れた。
“シロウサギ”。なぜかウサギたちはそれを探せという。チェシャ猫が言うにはそれは恐らくオレの兄のことだろう、とのことだ。
ぐらり。空間が揺らぐ。世界が瞬く。失くしていた喧騒が、一気に戻ってきた。
「あっ、いたいた、歩耶ー!」
現実へ引き戻すように名を呼ばれる。梨子だ。隣で篠波が申し訳なさそうに立っていた。
「もう、歩耶! 勝手にはぐれないでよー!」
「あ、あの、ごめんね夏瀬くん……。あたしが変なこと聞いたからかな……」
「藍璃は悪くないってば! もー、歩耶聞いてる?」
どうやらオレはいつの間にかはぐれたことになっているらしい。確かに先ほどまでいたのとは別の屋台の前にいた。
篠波は自分が兄さんのことを尋ねたせいでオレが気を悪くしたのでは、と思っているそうなので、それはきちんと否定をしておく。
ついでに二人に屋台で何かを奢ることを約束させられながら。
「……あっ」
不意に空が明るくなった。頭上を見上げると、色彩豊かな花がそこに咲いていて、続けて心臓に響くほどの音が宵闇に広がった。
「わあ……花火だ」
きらきらとした子どものような眼差しで、梨子と篠波はそれを見つめる。次々と上がっては消えていく儚いその光が眩しくて、オレはそっと目を細めた。
「花火、キレイだね」
いつの間に隣にいたのか、猫も嬉しそうに笑った。そしてどこか自慢気に、知っているかい、と話し出す。
「このおまつりの花火に祈ると、願い事が叶うんだって。アユカは何を願う?」
まあ、知っているけど。そう付け足してふわふわと笑みを浮かべるチェシャ猫に、オレも淡く微笑んだ。
願い事なんてたったひとつだ。そんなもの、祈るまでもなく。
「緋灯が、帰ってきますように」
ぽとり、と落とされたそれは、少女の囁くような願いだった。願いと称すべきかも躊躇うほどの、どこまでも純粋で切実で痛みに満ちたことばだった。
猫はいない。篠波が季節の花に祈る姿の横で、梨子はただ真っ直ぐに消えゆくそれらを見つめている。
「夕良くんも、繭耶さんも、きっと帰ってくるよ」
どん、と大きな音を立てて、花火は咲き終わった。明かりを無くした梨子の顔がふわりと笑っている。
「きっとね」
オレたちの願いを乗せて、祭りの夜は過ぎ去っていく。
夏はまだ、終わらない。
オレはまだ、現実と非現実を行き来して、繰り返して……それが“日常”と化すまで、ずっと。
どこかで青い髪の【眠り鼠】が笑ったような気がした。
祭ト花。
(気がつけば抜け出せないほどの深い闇に堕ちていればいい)
(鼠はそう言って猫に笑った)
「“オレ”はここにいるよ、藍璃」
声は、届くこともなく。