教室の戸を開けたら、そこには……――
『やあやあ、アリス! 遅かったね!』
『お茶会はとっくに始まっているよ!』
目のない真っ黒な兎の形をした異形たちが、机を集めてその上に食器や食べ物を置き、まさしくティーパーティーを始めようとしていた。
オレは慌てて一度引き戸を閉める。周りを見渡せば、先ほどまであちこちで聞こえていた喧騒がさっぱり聞こえなくなっていた。
そこが自身の教室であることを確認してから、再度その戸を開けた。案の定、異形たちがパーティー、パーティーと騒いでいる。
「……おーい、【チェシャ猫】。なんだこれ、ここオレらの教室だよな?」
いくら今日が夏休み明けの登校日とは言え、オレはそこまでボケていないはずだ。
思わず相棒である【猫】を呼べば、彼はすぐに姿を現した。
猫、と自称するその存在の形は、紛れもなく人間の少年だった。……瞳を始めとした体の至るところを覆う白い包帯と真っ赤な髪の毛が、異様なだけの。
「うーん、オレもさすがにわからないよ。チェシャ猫は全知全能じゃないんだ」
「使えないやつだな、とりあえず倒していいのか?」
「というか、倒さないと教室は元通りにならないよ、アユカ」
【猫】にアユカ、と呼ばれたオレ……夏瀬 歩耶は入り口から再び教室内を見やった。異形たちはこちらをじっと見つめている。……目はないのだが。
手を握り締めると、そこから愛用する金属バットが出現した。
……余談だが、オレは別に野球部でも何でもなく、ただこの異形たちと最初に戦ったときに、手近にあったバットを使用した結果がこれだった。
【チェシャ猫】の主だと言う白い【女王】に、バットに異形たちと戦うチカラを込められ問答無用に押し付けられたのだ。
「アユカー、ほらほら、さっさと倒そうよ」
……話が逸れた。オレはバットを固く握って異形たちに向かって走り出す。
『アリス! アリス! お茶会しようよ!』
『きみが探す“シロウサギ”も、きっとお茶会をしたいはずだよ』
「っだからオレは“アユカ”だっての……!!」
真っ黒な兎の異形たちにツッコミを入れながら、そいつらを薙ぎ払う。
“シロウサギ”。その個性的な名称は、なぜか失踪したオレの兄を指すのだと【猫】は言った。
オレは兄さんを探している。そのためにこの異形たちと戦っている。こいつらを倒していけば、いつか兄さんに辿り着くだろう、と【女王】が白い髪を揺らして穏やかに笑っていた。
……オレにはもう、こんな非現実的な出来事に頼るしかなかったんだ。
最後の一体を葬る。闇を纏った兎は、教室の窓から青空へと霧散していった。
「――……か……歩耶!!」
名を呼ばれ、ハッと我に返る。いつの間にか喧騒は戻り、【猫】はいなくなっていた。
幼馴染みの桜木 梨子が、心配そうにオレの顔を覗き混んでいた。
「……大丈夫、歩耶? 最近ボーッとしすぎだよ?」
「……夏バテかな」
今年も暑かったもんな、と適当に流しながら、オレは自分の席に向かう。
……梨子も他のみんなも、何も知らない。異形たちも【チェシャ猫】も、オレにしか見えない……オレだけの非日常。
だけど異形たちを殴った感触も、【猫】の声も覚えている。非現実的だけど、オレにとっては紛れもない現実だった。
「朝から散々だったね」
勝手に人の机に腰掛けて、【猫】が笑った。まったくだ、と頷いて、オレは椅子に座ろうとした……――
瞬間だった。
「歩耶」
名を呼ばれ振り向いたオレの背後で、五年も前にいなくなったはずの兄さんが……微笑んでいた。
気付けば教室に差し込む光は、夕焼けの色をしている。
(いるはずなんて、ないのに)
「歩耶、気を付けて。【眠り鼠】が視ているよ」
ほら、そこに。そう言って兄が指差した先には、教卓に腰掛けてにやりと嘲笑う蒼い髪の少年……【眠り鼠】。
異形たちの主で、オレの命を狙う存在。
『……アユカ。きみは……いつになったら死んでくれるの?』
ぐらり。呪詛のコトバに足元が崩れる感覚がした。
最後に見たのは、オレに向かって必死に手を伸ばす【猫】の姿だった。
+++
「びっくりしたよ、歩耶」
梨子の声に目を覚ます。保健室の天井が、真っ先に視界に入った。
「始業式で倒れるなんてさあ」
「し、ぎょう……しき……?」
「覚えてないの? 校長先生のながーいお話」
彼女の話からすると、オレは知らぬ間に始業式に出席したものの、途中で貧血を起こした女子の如く倒れてしまったのだそうだ。なかなかの失態である。
【猫】はいない。【眠り鼠】も……兄さんも、いない。いない、いない、いない、いない、いない、いない、いない。
(それじゃあ、こっちが“非現実”……?)
「……歩耶?」
「いない……いない、いない、兄さん、兄さん……!!」
オレはベッドから飛び出して、ドアへと駆け寄る。心配そうな梨子は放っておいて。
「歩耶! 待ってよ! ……お兄さん、見つかったの?」
腕を掴んで制止の声をかけてきた彼女に、言葉がつまる。見つかった?
いいや、あれは……。
「……ごめん、ただの夢だったみたい……」
……夢? そうだろうか……?
自身の口から自然と漏れた言葉に、オレは首を傾げる。兄さんが、【猫】が、【眠り鼠】がいる方がオレにとっては現実なのだ、きっと……!
引き戸を開ければ、夕焼けが校舎を包み込んでいた。すでにほとんどの学生は帰宅したようで、遠くから吹奏楽部の奏でる音色だけが聴こえる。
荷物を取りに教室に戻らなければ。
そう言えば、梨子はそうだね、と歩き始めた。
彼女の背後がゆらりと揺らめく。遠くで異形たちがこちらを見て笑っている。
「……歩耶? 置いてくよ?」
夕陽に微笑む彼女は境界線。ああ、オレはまた、現実と非現実の狭間を彷徨っていく。
少しだけ和らいだ夏の暑さに溶け込むように。
夏ト夢。
(現実がわからなくなっていく、オレはどこへ行くのだろう?)
『はやくここまで堕ちて、アユカ』
【眠り鼠】の囁く呪いが、教室にこびりついたまま離れない。