――夏は嫌いだ。
責め立てる蝉の声、目が眩む夕立、咽返る熱帯夜。
……そしてそんな夏の日に、兄さんは、この世界から……消えてしまったから。
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「歩耶?」
前を歩いていた幼なじみの少女・梨子が、くるりと振り向いて首を傾げた。
ゆらゆらと揺らめく炎天下に、彼女は暑さなど気にしていないようだ。
「……なんでもない」
歩き出した世界は、ぐるりと歪みはじめていた。
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冷房が効きすぎた電車の中。
オレと紅い髪の猫の二人きり、貸切状態。
どこへ向かうのか、どこから乗ったのか。
それすら思い出せないけれど、もう二度と降りられないことだけはぼんやりと理解した。
「そうだね、キミが失くしたモノを取り戻すまでは」
包帯を巻いた猫が笑う。
失くしたモノ。オレが追い求めるモノ。
……ずっと昔、この夏の日に消えた、兄。
「……それだけじゃないよ、アユカ」
猫の声に被さるように、踏切の警報音がけたたましく鳴り響いていた。
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「消えた兄を探したいのなら、異形と戦いなさい」
ある日告げられたのは、非日常への入口だった。
それをオレに伝えたのは、真っ白な髪の女王。オレが戦うのは、真っ黒なウサギ型の影。
そして、戦い続けたその先にいたのは。
「よくここまで辿り着いたね、アユカ」
嗤う嗤う嗤う、蒼い髪の【眠り鼠】――
「マユカは別の世界にいるよ。
ほらご覧、楽しそうに笑っているよ。きみの苦労もなにも知らずに!」
【眠り鼠】に見せられたのは、水面に映る兄の姿。
こちらのことなど忘れてしまったかのように笑うその人に、オレは声を張り上げた。
「っ違う!! こんなの……こんなの、デタラメだ!!」
「そうかな?」
ニタニタと嗤う【眠り鼠】に、真っ青な顔をした猫が首を振る。
「もうやめよう、もうやめようよ、こんなの誰も望んでないよ」
「オレが望んだんだよ、チェシャ猫。
オレが望んだんだ、アユカを殺せば……この世界は崩壊する」
「……どういう、ことだ?」
嘲笑う【眠り鼠】に尋ねると、ネズミはさらに意味のわからない言葉を発した。
「アユカは【世界樹】。この世界の要。
そうしてアユカを殺すのが、オレの目的」
「……ユグドラシル? オレを殺す……って、なんでだよ!!」
叫ぶオレにネズミはその青い瞳を細める。そこに宿る殺意に、思わず後退ってしまった。
「知らなくていいことだよ、アユカ。だって……」
「っアユカ!!」
言葉を切ったネズミ、悲鳴のようにオレの名を呼ぶ猫。
背後から、剣を象った無数の影が、オレと猫を狙っていて……――
「さよなら、アユカ」
【眠り鼠】の声と海の波音が、世界に残響した。
+++
――夏は嫌いだ。
責め立てる蝉の声、目が眩む夕立、咽返る熱帯夜。
……そしてそんな夏の日に、オレは、この世界から……消されてしまうのか……?
「歩耶」
「……り……こ……?」
気がつけばオレは、砂浜に倒れていた。夕焼けの赤が目に染みる。
体の半分が海に浸かっているが、動くことも億劫だった。
右隣には、チェシャ猫が意識を失って倒れている。
そして反対側にいたのは……幼なじみの梨子だった。
「残念だったね。ずいぶん惜しいところまで行ったんだけど……失敗だったね」
「……な、に……?」
「でも大丈夫。そんなときのための、『わたし』だから」
オレの問いかけには答えずに、梨子は真っ直ぐに夕日を眺めている。
「……【眠り鼠】はね、この世界に拒絶されたの。異端な能力を持っていたから。
だから、世界への復讐のためにアユカを殺して……この世界を滅ぼそうとした」
この“非日常”を知らないはずの梨子から出てくる単語に、オレの心は不安に揺れる。
……彼女は、『誰』だ……?
「でも、【眠り鼠】は知らなかった。
アユカが……【世界樹】が殺されないための保険がある、ということを」
「保険……って……」
そこで初めて、梨子はオレと視線を合わせた。
彼女の茶色の瞳は、夕焼けを映して紅く染まっている。
「私だよ、歩耶。私の存在が、歩耶の保険。
君が命を落としても……私の存在が、君を助ける」
オレを助けたら今までの『梨子』は消える。
しかし、また同じ容姿同じ名前の『梨子』が生まれて、オレの『保険』としてオレの前に現れる。
最初からそこにいたかのように。オレの『幼なじみ』として。
……まるで、夏の陽炎のように。
そう言って梨子は、心底嬉しそうに笑った。
オレのために命を投げ出せるのが、嬉しいのだと、笑った。
梨子のからだが薄く消えていく。夏の夕闇に、溶けていく。
どうして。
「り、こ……!!」
どうして、こうなってしまったんだろう。
いつまで続くのだろう。
どうすれば……彼女を、救えるのだろう……?
『さよなら、歩耶。次の『私』に、よろしくね 』
「っ梨子……ッ!! 梨子ッ!! 梨子ぉぉぉぉッ!!」
+++
「……起きたのね、歩耶」
空調の効いた自室で目を覚ませば、傍にはベッドの縁に腰かける梨子がいた。
「……梨子……? あれは……ゆ、め?」
「何寝ぼけてるの。……まあ、目が覚めたならいいわ。
わたし、帰るわね」
立ち上がり背を向けた彼女は、梨子だけれど……しかし、違う存在に見えて。
「……っ梨子……!!」
伸ばした手は、厚い扉に阻まれてしまった。
+++
――夏は嫌いだ。
責め立てる蝉の声、目が眩む夕立、咽返る熱帯夜。
……そしてそんな夏の日に、オレの幼なじみは……この世界から、消えてしまった。
オレの命と、引き換えに。
それはきっと……紛れもなく、現実なのだろう。
ああ――
「……夏なんか、無くなればいいのに」
呟いたのは、誰かのこころ。