WonderLand.

第5話 夏ノ瀬。


 ――夏は嫌いだ。
 責め立てる蝉の声、目が眩む夕立、咽返る熱帯夜。

 ……そしてそんな夏の日に、兄さんは、この世界から……消えてしまったから。


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歩耶あゆか?」

 前を歩いていた幼なじみの少女・梨子リコが、くるりと振り向いて首を傾げた。
 ゆらゆらと揺らめく炎天下に、彼女は暑さなど気にしていないようだ。

「……なんでもない」

 歩き出した世界は、ぐるりと歪みはじめていた。

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 冷房が効きすぎた電車の中。
 オレと紅い髪の猫の二人きり、貸切状態。
 どこへ向かうのか、どこから乗ったのか。
 それすら思い出せないけれど、もう二度と降りられないことだけはぼんやりと理解した。

「そうだね、キミが失くしたモノを取り戻すまでは」

 包帯を巻いた猫が笑う。
 失くしたモノ。オレが追い求めるモノ。
 ……ずっと昔、この夏の日に消えた、兄。

「……それだけじゃないよ、アユカ」

 猫の声に被さるように、踏切の警報音がけたたましく鳴り響いていた。

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「消えた兄を探したいのなら、異形と戦いなさい」

 ある日告げられたのは、非日常への入口だった。
 それをオレに伝えたのは、真っ白な髪の女王。オレが戦うのは、真っ黒なウサギ型の影。
 そして、戦い続けたその先にいたのは。

「よくここまで辿り着いたね、アユカ」

 嗤う嗤う嗤う、蒼い髪の【眠り鼠】――



「マユカは別の世界にいるよ。
 ほらご覧、楽しそうに笑っているよ。きみの苦労もなにも知らずに!」

 【眠り鼠】に見せられたのは、水面に映る兄の姿。
 こちらのことなど忘れてしまったかのように笑うその人に、オレは声を張り上げた。

「っ違う!! こんなの……こんなの、デタラメだ!!」

「そうかな?」

 ニタニタと嗤う【眠り鼠】に、真っ青な顔をした猫が首を振る。

「もうやめよう、もうやめようよ、こんなの誰も望んでないよ」

「オレが望んだんだよ、チェシャ猫。
 オレが望んだんだ、アユカを殺せば……この世界は崩壊する」

「……どういう、ことだ?」

 嘲笑う【眠り鼠】に尋ねると、ネズミはさらに意味のわからない言葉を発した。

「アユカは【世界樹ユグドラシル】。この世界の要。
 そうしてアユカを殺すのが、オレの目的」

「……ユグドラシル? オレを殺す……って、なんでだよ!!」

 叫ぶオレにネズミはその青い瞳を細める。そこに宿る殺意に、思わず後退ってしまった。

「知らなくていいことだよ、アユカ。だって……」

「っアユカ!!」

 言葉を切ったネズミ、悲鳴のようにオレの名を呼ぶ猫。
 背後から、剣を象った無数の影が、オレと猫を狙っていて……――


「さよなら、アユカ」


 【眠り鼠】の声と海の波音が、世界に残響した。


 +++


 ――夏は嫌いだ。
 責め立てる蝉の声、目が眩む夕立、咽返る熱帯夜。

 ……そしてそんな夏の日に、オレは、この世界から……消されてしまうのか……?


「歩耶」


「……り……こ……?」

 気がつけばオレは、砂浜に倒れていた。夕焼けの赤が目に染みる。
 体の半分が海に浸かっているが、動くことも億劫だった。
 右隣には、チェシャ猫が意識を失って倒れている。
 そして反対側にいたのは……幼なじみの梨子だった。

「残念だったね。ずいぶん惜しいところまで行ったんだけど……失敗だったね」

「……な、に……?」

「でも大丈夫。そんなときのための、『わたし』だから」

 オレの問いかけには答えずに、梨子は真っ直ぐに夕日を眺めている。

「……【眠り鼠】はね、この世界に拒絶されたの。異端な能力を持っていたから。
 だから、世界への復讐のためにアユカを殺して……この世界を滅ぼそうとした」

 この“非日常”を知らないはずの梨子から出てくる単語に、オレの心は不安に揺れる。
 ……彼女は、『誰』だ……?

「でも、【眠り鼠】は知らなかった。
 アユカが……【世界樹】が殺されないための保険がある、ということを」

「保険……って……」

 そこで初めて、梨子はオレと視線を合わせた。
 彼女の茶色の瞳は、夕焼けを映して紅く染まっている。

「私だよ、歩耶。私の存在が、歩耶の保険。
 君が命を落としても……私の存在が、君を助ける」

 オレを助けたら今までの『梨子』は消える。
 しかし、また同じ容姿同じ名前の『梨子』が生まれて、オレの『保険』としてオレの前に現れる。
 最初からそこにいたかのように。オレの『幼なじみ』として。


 ……まるで、夏の陽炎のように。


 そう言って梨子は、心底嬉しそうに笑った。
 オレのために命を投げ出せるのが、嬉しいのだと、笑った。

 梨子のからだが薄く消えていく。夏の夕闇に、溶けていく。
 どうして。

「り、こ……!!」

 どうして、こうなってしまったんだろう。
 いつまで続くのだろう。
 どうすれば……彼女を、救えるのだろう……?

『さよなら、歩耶。次の『私』に、よろしくね 』

「っ梨子……ッ!! 梨子ッ!! 梨子ぉぉぉぉッ!!」


 +++


「……起きたのね、歩耶」


 空調の効いた自室で目を覚ませば、傍にはベッドの縁に腰かける梨子がいた。

「……梨子……? あれは……ゆ、め?」

「何寝ぼけてるの。……まあ、目が覚めたならいいわ。
 わたし、帰るわね」

 立ち上がり背を向けた彼女は、梨子だけれど……しかし、違う存在に見えて。

「……っ梨子……!!」

 伸ばした手は、厚い扉に阻まれてしまった。


 +++


 ――夏は嫌いだ。
 責め立てる蝉の声、目が眩む夕立、咽返る熱帯夜。

 ……そしてそんな夏の日に、オレの幼なじみは……この世界から、消えてしまった。
 オレの命と、引き換えに。

 それはきっと……紛れもなく、現実なのだろう。


 ああ――


「……夏なんか、無くなればいいのに」


 呟いたのは、誰かのこころ。