WonderLand.

第6話 春ト終。


 前を歩く、少女の背。
 【眠り鼠】に挑んで、負けて、彼女は“彼女”ではなくなって。
 夕焼けに伸びる影、こちらを見つめる異形のウサギ、隣には包帯だらけの猫。
 言葉はなかった。 田畑に囲まれた畦道を、ただ黙々と歩いていた。

 ……いつから? どうして? どこへ?

 わからなかった。わからないまま、オレは歩き続けていた。
 遠くから響く笑い声、蝉時雨、泣き声に、めまいがする。
 ただ、立ち止まってはいけないことだけは、わかっていた。

「貴方の帰るべき場所は」

 ……不意に。幼なじみの彼女が、前方を指差した。
 視界の先では、遮断機がけたたましい音で鳴いている。

「……梨子リコ、オレは……――」

「……対話なさい、歩耶アユカ。貴方の存在と、貴方の兄シロウサギと」

 とん、と背を押される。いともたやすく侵入できた踏切の中。
 迫りくる電車を、オレはぼんやりと見ていた。

 だって、もう、どこからが現実で、どこまでが非現実なのかわからない。

 ……わからないよ、兄さん。

 +++

 いつまで経っても訪れない衝撃に、ぱちりと目を開ける。
 ……そこは電車の中だった。いつの間に移動したのかわからないが、それすらもはや“日常”だった。

「……チェシャ猫?」

「なに、アユカ」

 ふと、傍らにいるはずの相棒の存在を思い出し、名を呼ぶ。
 程なくして現れた猫を名乗る彼は、いつもの目隠しを外していて。
 血のように紅い髪と、窓の外の夕焼けを映したような橙色の瞳が、真っ直ぐにオレを射貫く。
 ――どこかで見たことのある少年だと、思った。
 朧げな記憶の糸を手繰り寄せる。そうしてひとつ、思い当たった。
 ……幼なじみ梨子の友だちが見せてくれた、失踪した少年の写真に。

「……夕良ゆうら……緋灯ヒア……?」

 ガタンゴトン、と電車が揺れる。
 猫はふわりと微笑んで、首を横に振った。

「……そうだけど、違うよアユカ。……オレは、地球に遺った夕良 緋灯の残留思念。
 消えるだけだったオレを……【眠り鼠】が存在させた」

 この世界から消える前……遠い過去で、“事故”に遭ったヒアが遺した、感情のかたまり。
 水分が蒸発するように消えていくはずの彼を、【眠り鼠】は自分の手駒として残そうとした。

「……でも、オレは……この世界を壊そうとする【眠り鼠】とは、わかりあえなかった。
 チェシャ猫は……夕良 緋灯は、この世界を愛していたから」

 だから、アユカに力を貸したんだ。そう言って、チェシャ猫は寂しげに微笑んだ。
 そうか、とだけ返して、オレは窓の外を眺める。
 ……きっと、オレを非日常へと導いた【白の女王】もチェシャ猫と同じなのだろう。
 ぼんやりと考える思考回路は、幾分かまともになっていて。

 ガタンゴトン、と電車が走る。
 夕空が作る影が、車内を埋め尽くす。
 黒いウサギがこちらを見ている。見ている。見ている。

『アリス、アリス、もどっておいで』

『アリス、アリス、かえらないで、あそぼうよ』

 黒いウサギがカラカラ嘲笑う。嗤う。微笑う。
 ……けれど、向かいに座っていたヒアが緋色の剣を振るってウサギたちを追い払った。

「……アユカは渡さないよ、【眠り鼠】」

 夕焼けの瞳が、進行方向の反対側を睨みつける。
 影が人のカタチを型取り、現れたのは……蒼い髪の【眠り鼠】。

「……チェシャ猫。どうして裏切るの?
 しんでよ、アユカ。この世界を壊してよ。オレを拒絶した、この世界を……――」

 呪詛のような言の葉が、真っ赤な車内に響き渡る。
 それでも……オレは。

「【白の女王】が、このチカラをくれた。チェシャ猫が一緒に戦ってくれた。……梨子が、助けてくれた。
 ……お前の創る非日常には、もう戻らない。たとえ兄さんが……帰ってこなくても」

 脳裏をよぎる、幼なじみの少女。
 オレのために命を捧げ、存在を変え、そして背を押してくれた、そんな彼女に報いるために。
 振り払う、兄への想いと金属バット。それを見た【眠り鼠】は、嫌そうに顔をしかめた。

「……きらい。きらい。きらい。
 きみもオレを拒絶するの? みんなみんなきらいきらいきらい!!
 どうして!! 死んでよ壊してよ壊れてよこんな世界なんか!!」

 彼の絶叫と共に、カゲウサギたちが現れる。
 無尽蔵に湧くそれらをバットで殴り倒しながら、オレは【眠り鼠】へと声を張り上げた。

「お前に何があったのかは知らない! だけど……だからって、世界を壊していい理由になんてならない!!」

「うるさい、うるさい、うるさい!!
 非日常の中でどろどろに融けていなくなっちゃえばよかったのに!!」

 泣き叫ぶ、【眠り鼠】。けれど、カゲウサギたちの襲撃を掻い潜り、彼の目の前にチェシャ猫が躍り出る。

「……ッ」

「……もう、やめよう、【眠り鼠】。……いや……。
 ……《夜》」

 チェシャ猫は【眠り鼠】の真っ黒な手を握りしめて、祈るように呟いた。

「もうやめようよ、こんなこと。世界を壊したって、誰も救われない。……《夜》の、ココロだって。
 それに、アユカは殺せない。……防衛機構のことは、もう理解したよね?」

「……それでも、そうだとしても……っ」

「《夜》。もう、夢から醒める時間だ。
 君の本体は長い長い眠りから醒めて、オレたち残留思念も消えて、君は元の……在るべき場所に、還らないと」

 防衛機構。桜木 梨子さくらぎ リコ
 彼女がいる限りオレを殺すことはできないのだと、ヒアは【眠り鼠よる】に語る。
 ……オレが兄を探して非日常に身を置いて命を狙われ続ける限り、彼女はその命をオレのために使ってしまう。

(もう……あんな想いは、嫌だから)

「……【眠り鼠】。もうお前の甘言には乗らない。
 梨子のためにも……オレは、前に進むよ」

 バットを突きつけてそう宣言すれば、【眠り鼠】はひゅっと息を呑んだ。
 途端にどろどろと溶け出す、影でできた彼の体。
 涙で揺れる深海の瞳が、どうして、と呟いた。

「どうして……みんな、みんな、オレを……拒絶、するの……?」

「……オレも、アユカも、みんな……この世界が好きだから。
 《夜》だってそうだよね? ……大切な世界が、あるんだよね?」

「そ、れは……っ」

 ……それは、【眠り鼠よる】の本体がいる世界……異世界なのだとヒアは言う。
 彼の言葉にたじろぐ【眠り鼠】。その存在が、ゆらゆらと揺らぎ始めた。

「もう、起きよう、《夜》。悪い夢から覚醒めよう?」

 手を差し伸べたヒアに、彼は小さく頷く。
 途端に溢れ出す柔らかな光。オレは思わずヒアを呼んだ。

「チェシャ猫」

「……アユカ、ごめんね。さよならだ。オレはこの人を連れて行かなきゃ」

「さよなら、って……」

 突然の別れの言葉に、頭がうまく回らない。
 そんなオレの様子を見て、ヒアは橙色の瞳を細めて微笑んだ。

「アユカ、君との時間は楽しかった。
 猫の記憶はヒアには継承されないけれど……オレヒアに会ったら、よろしくね」

「っチェシャ……!!」

 手を伸ばしたオレの目の前で、猫と鼠は光に飲まれる。
 最後に見たチェシャ猫は、ありがとう、と笑っていた……――

 +++

 がたん、と唐突に電車が止まる。
 次いで開いたドアから、オレは何も考えずにふらりふらりと電車を降りた。
 夕焼けに染まる無人駅。発車のベルを鳴らして去っていく電車。
 ……それが過ぎ去ったあと、向かいのホームにいたのは。

「……兄さん」

 遠い昔に消えた、兄……夏瀬 繭耶なつせ マユカだった。

「歩耶」

 微笑む兄が纏う白銀のマントが、夕陽にきらきらと輝いている。
 だから理解してしまった。
 オレたちの前にある線路は境界線。オレはこれを越えられないし、恐らく兄はこちらに来ることはないのだろう。

「……全部、夜から聞いた。オレのせいで、怖い思いをさせてごめん」

「……別に、謝ってほしいわけじゃない」

 頭を下げる兄に、オレはゆるゆると首を振る。
 そうだ、謝ってほしいわけじゃない。ただ……ただ、オレは。

「……元気そうでよかった、兄さん」

 オレのことを忘れずにいてくれた。生きてくれていた。
 それだけで、じゅうぶんだった。

「……歩耶」

 ほっとした顔の兄に、オレは笑いかける。
 遠くから響く、遮断機の警告音。……きっと、もうお別れのとき。

「兄さん。兄さんは、別の世界でやることがあるんだろ?
 それが何かはオレにはわからない。だけど……応援、してるから!」

 音に負けないよう声を張って伝えれば、彼は一瞬驚いたように目を見開いて……それから、久しぶりに見る見慣れた笑顔を浮かべてくれた。

「ありがとう、歩耶。お前も頑張れよ」

 遠のく意識に、兄さんの声が木霊する。

「……元気で」

「ああ、歩耶も」

 なんとかそれだけを口に出して、オレは瞳を閉じたのだった。


 +++


 春風が吹く。
 それは桜の花びらを攫って、青く澄み渡った空へと解き放った。

「歩耶」

 茶色のポニーテールを揺らして近づいてきたのは、梨子。
 呆れたような顔で、オレを見ていた。

「……何してるの。早く行かないと、授業に遅れるわよ」

 淡々と告げられたそれに、オレはごめん、とだけ返して歩き出す。

 ……あれから、目を覚ましたオレは“現実”へと還ってきていた。
 眼前には、心配そうな顔をした梨子だけがいて。
 どれだけ呼んでも、猫は現れなかった。

 非日常を彷徨い続けて、いつの間にか季節が進んでいたことにも気づけなくて。
 それでも“オレ”はきちんと日常を過ごしていたようで、兄のように行方不明者にはなっていなかったようだ。記憶にはないが。

 穏やかな日々。平和な世界。いない猫と鼠とウサギ。
 くらり、とめまいがする。まるで、何事もなかったように進む“日常”が、逆に非日常のように感じてしまうけれど……――

「……歩耶?」

 振り向いた彼女に、何でもない、と答えて足を踏み出した。

(“非日常”は終わった。 これからオレが生きるのは……紛れもない、“日常”なんだ)

 もう非現実と現実の狭間を彷徨うことはない。
 しっかりと大地を踏みしめて、オレはこの世界を歩いていく。
 遠い異世界にいる、兄の分まで。

「……頑張るよ、兄さん」

 呟いた声は、暖かな風と共に宙へと消えていったのだった。


 ――これは、ひとりの少年が、現実と非現実を彷徨い歩いた物語。
 非日常ワンダーランドを抜け出して、日常へと帰還した……そんな、御伽噺フェアリーテイル



 WonderLand. Fin.