この夜を越えて、静寂。

蒼空回帰に眠る。


 少年は頭上に広がる蒼空を見上げる。

 どこまでも続くそれを、彼は綺麗だと、たしかに思ったのだった。

 

 

 

 

 少年には双子の兄がいた。

 性格は真逆、明るく社交的で文武両道、誰にでも優しく分け隔てなく友人も多い。

 まさに絵に描いたような完璧人間の、兄がいた。

 

 兄は弟である少年にも優しかった。

 出来損ないでコンプレックスの塊である弟を、そうと知りながら溺愛していた。

 少年はそれが苦痛で、悔しくて、惨めでみっともなくて……兄が嫌いで、それでも大好きだった。

 

「はんぶんになれたらよかったのに」

 

 兄が笑う度に傷つく少年は、ある日ぽつりと呟いた。

 兄が持つもの、自分が抱えるもの。

 全て半分ずつ二人で分けることができたなら、兄は自分の苦労や苦痛を理解しただろうに。

 

 ……兄が妬ましく、羨ましく、だからこそ自分の抱えるものを持てば、彼もきっとそれなりに堕ちてくれるだろうと……そんな暗い想いもあったが。

 

 兄はそんな少年の言葉にきょとんとした顔をしてから、くすくすと笑った。

 

 

(ああ、そんな屈託のない笑顔でさえも腹が立つ!)

 

 

「僕たちはちゃんと半分だよ」

 

 全てを持っているくせに、何が半分か。

 それとも自分が全て持っていることが当たり前だと言うのか。

 ……少年はやはり兄が嫌いで、嫌いで、憎くて……。

 

 

 自分がひどくちっぽけで愚かな存在だと改めて思い知らされた。

 

 

 

 

 ビルのすき間から爽やかな風が吹き付ける。

 空はどこまでも青くて、雲ひとつない快晴だった。

 

 ああ、今日は良き日だ。

 

 適当に選んだ建物の屋上。 少年はそのフェンスを越えて佇んでいた。

 

 きっと。

 

 きっと自分などいなくても、世界は廻り続けるだろう。

 きっと自分などいなくても、兄は笑って生きていくのだろう。

 

 ああ、大丈夫。 大丈夫だよ。 怖くない。 むしろ嬉しい。

 

 初めからこうすればよかったのだ。

 誰からも愛されず、誰からも必要とされていない自分など……消してしまえば。

 

 あと一歩。 あと一歩踏み出せば、それで終わり。

 こんな馬鹿みたいな人生の終わりは、呆気ないくらいがちょうどいい。

 

 

 少年の体が宙に浮かぶ。 落下する。 蒼空が遠ざかる。

 ……誰かの声が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 ねえ、朝兄さん。 オレはたぶん、ほんとうは生きたかったんだ。

 兄さんみたいに、兄さんと一緒に。

 だけど、ぐちゃぐちゃに絡まった心は、もう耐えることが出来なくなった。

 だから、ねえ。 これ以上兄さんを傷つける前に、オレは……――

 

 

「……いきて、夜――」

 

 

 

 

 

 

 目を覚ます。 携帯端末に手を伸ばす。

 ○月×日、本日も快晴。

 ほしい情報は簡単に手に入る。

 端末を無造作に置いて、再び布団に寝転がる。

 

 

 嫌な夢を見た。

 

 自分がどこかの屋上から飛び降りる夢だった。

 

 なんだか無性に怖くて、悲しくて、辛かった。

 ……ああ、夢でよかった。 生きていて、よかった。

 

 学校へ行く準備をする。

 早くしないと遅刻するよ。 そんな声が聞こえた気がして、思わず言葉を返してしまう。

 

「大丈夫だよ、兄さん」

 

 ……口に出して首を傾げる。

 おかしい、自分には『兄弟なんていない』はずだ。

 アニメの見すぎか、疲れているのか。

 ともあれ、早く学校へ向かわなければ。

 

 

 ……パタリ、と閉じられた扉の中で、 彼は悲しげに微笑んだ。

 

『だから言ったでしょう、夜。 僕たちはちゃんと半分だって……――』

 

 守りたかった。 助けたかった。

 しかし、伸ばした手はいつだって『弟』を傷つけるだけのもので。

 自分の存在が彼を傷つけているのはわかっていた。 どうしたらいいのかわからなかった。

 

 そうして苦しむ彼が蒼空に身を投げて……兄は命を差し出した。

 

 “生きて、夜。 代わりに僕が消えるから。 世界から……君の記憶の中から――”

 

 

 

 半分のふたり。 命を分けて生まれたふたり。

 

 兄は存在が消えてでも、弟の命を救った。

 

 ふたりはひとりに。 半分はひとつに。

 

 きっと、弟は兄のことを思い出さないのだろう。

 この世界は、兄の存在を思い出さないのだろう。

 

 この世でたったひとりを喪って、弟はようやくスタートラインに立つ。

 ああ、何にも縛られることがなくなった彼はやっと、心の底から笑うことができたのだ。

 ……たったひとりの兄が、ずっと見たくて取り戻したくて命を投げ出したほどの、笑顔を。

 

 

“それでいいんだ、彼がしあわせならば”

 

 

 呟いて消え行く兄もまた……幸せそうな笑みを、浮かべていたのだった。

 

 

 

 通学路の途中、少年は蒼空を見上げる。

 どこまでも続くそれを、綺麗だと思ったけれど……――

 

 

 なぜだか、悲しかった。 心がひどく痛い。

 

 

 まるで、たいせつな何かを失ったように。

 ……自身の半分を、失ったように。