水中の空間で、うずくまる少年を見ていた。
――ヒア……?――
そっと名を呼べばぴくりと反応を示すその身体に触れようと、手を伸ばす。
『……だれ、なんだろう』
しかしその手が届く前に、ぽつりと彼が呟いた。
――……?――
きょとんと首を傾げれば、彼は再度言葉を紡いだ。
『オレの身体を乗っ取ったの、だれ……なんだろう。……お前じゃないのは、わかるけど』
そう言って顔を上げた彼の瞳は、かつての自分のように光をなくしていた。
――ヒア――
『なあ、お前は知ってるんだろ? あいつのことも、ソカルのことも……オレの、ことも』
思わず名を呟けば、ヒアは濁った瞳のまま真っ直ぐに見つめてきた。
夕陽を閉じ込めたようなその目は、少しだけ潤んでいるように見える。
『知りたいんだ、オレは。何も知らないまま身体乗っ取られて……そんなの、嫌だ』
だけど、痛いんだ、怖いんだ。そんな感情をこぼして、そのまま彼はまた俯いてしまった。
――……だめだよ、ヒア――
ふわりと彼に近づいて、その紅い身体を抱き締める。
――思い出せば、知ってしまえば、きみは壊れてしまう――
知らなくていいなら、知る必要などないのだ。傷付いてしまうくらいなら、いっそのこと目を塞いでしまえばいい。
(やっぱり世界は、誰にも優しくない)
そっと閉じた瞳に、オレは、まだ……――
目覚めには、至れない。
+++
不意に意識が浮上して、オレは辺りを見回した。
(何度目だろうなぁ、こういうの)
目の前には、オレンジ色の頭。……どうやらオレは、イビアさんに背負われているようだ。
「お、起きたか、ヒア」
相変わらずからから笑うイビアさんの声に、仲間たちが一斉に駆け寄ってくる。……ちょっと、怖いです。
「ヒアさんっ!! 大丈夫ですか!?」
「アーくん起きてよかったです……!」
「ちょっと、大丈夫なの?」
リブラに、フィリに、ナヅキに口々にそう心配され、イビアさんの背中から降ろされたオレは苦笑いを返す。
ふと黙ったままこちらを見ていたソカルと目があった。
「……気が付いてよかった、ヒア」
そっと笑う彼に、オレも曖昧に笑い返してからそっと視線を外した。
……あれ? そう言えば。
「ってお前、怪我大丈夫なのか!?」
唐突に気を失う前の出来事を思い出し、慌てて死神を見やる。彼は驚いたような顔をして、こくりと頷いた。
「まあ、うん……。大丈夫、だよ」
僕は【死神】だから、人間より傷の治りが早いんだ。
そう言って苦笑いを零した彼に、オレはほっと息をつく。確かに彼は今普通に立っているし、どこも痛そうにしていない。
そう安堵してから次に思い出すのは、彼が呼んだ名前だった。
(あれは……誰だったんだろう? オレは……だれ、なんだろう……?)
ぐるぐると廻る思考に溺れていたら、一番近くにいたナヅキがオレの顔を覗き込んだ。
「……アンタ、ちゃんと起きてんの?」
「だ、大丈夫だって! ……心配かけてごめん」
怪訝そうにオレを見る彼女に、オレは笑いかける。
大丈夫ならいいんだけど、と歩き出したナヅキたちの後ろをついて行って、改めて気が付いた。
「……どこだ、ここ」
オレが気を失っている間に、どうやら場所を移動したようだ。辺り一面草原だったのが、いつの間にやら深い森に変わっている。
「見ての通り、森だなー」
隣を歩くイビアさんが、のんびりとした口調で答えてくれたけども。
「いや、それは見たらわかるッス。……まあ、どの辺とか言われてもさっぱりッスけど」
「だろうなー」
ははは、と笑う先輩にため息をつきかけた、その時だった。
「いいいい、イビアさああああんっ!!」
女性陣と一緒に前を歩いていたはずのフィリが、泣きそうな顔でオレたちの元へ駆けてきた。
「どうしたんだ?」
きょとんと首を傾げるイビアさんに、フィリはわたわたと前方を指差した。
「ひひひ、ひと!! 人が倒れてるですよぉぉぉっ!!」
「……えっ」
そんなのさすがにオレもどうしようもないんだけどなー、なんてぼやきながら、フィリに引っ張られてイビアさんとついでに黒翼が、人が倒れているという場所へ連れて行かれた。
オレは何となく離れた場所を歩いていたソカルを横目で見やる。どこかぼんやりとした風の彼は彼なりに、何かを考えているんだろう。
オレが知らないソカルのこと。ソカルが知っている『オレ』のこと。
思えば思うほど、知りたいし、同時に胸が痛くて仕方がなかった。
「……ソカル、あのさ……」
意を決して彼に話しかけようとした、瞬間。
「何でお前がここにいるんだよぉぉぉぉっ!!」
イビアさんのものと思わしき絶叫が、森に響いた。
何とも言えない空気になって、オレたちは顔を見合わせた後みんなの元へ走り出した。
「い、イビアさん? どうしたんスか大声出して」
仲間たちの元へたどり着けば、ぐったりしている茶髪の青年の肩をイビアさんがすごい形相で掴んでいた。
当然、ナヅキたちは引いている。黒翼もなんとも言えない顔をしている辺り、もしかしなくてもこの青年は。
「……お知り合いッスか?」
「あー、まあ、うん……」
遠い目をする先輩に首を傾げつつも、死にそうな顔をしている青年に目をやる。
「あの、その人どうしたんスか? 死にそうな顔してますけど……」
「……お腹、空いた……」
オレが青年を指差したのと同時に、彼がぽつりと呟いた。
……つまり、どうやら彼は行き倒れらしい。
+++
「迷子になった挙句行き倒れとか、お前なんていうか……意外とバカなんだな」
あれからオレたちの食糧を分けてあげ、少し元気を取り戻したらしい青年にイビアさんが辛辣な言葉を投げかける。
……もしかしなくても、仲はあまりよろしくない感じなのだろうか。
「バカとは失礼だね。迷ったことは認めるけれど、仕方がないだろう。
こんなに深くて複雑な森なんて、生まれて初めてなのだから」
何とも独特な口調で話す青年に、イビアさんと黒翼さんは揃って盛大にため息をついた。
「ため息なんて吐くと、幸せが逃げてしまうよ?」
「だ・れ・の・せ・い・だ・よ!!」
飄々と言ってのける青年の頭をそ叩こうと、イビアさんが手を振り上げた、その次の瞬間。
――ドォォォン……!!
「……ッ!?」
青年を囲むようにして座っていたオレたちの背後で、巨大な雷が落ちる。
驚いて振り向けば、離れた場所で黒焦げになって倒れている魔物の姿があった。
「……やれやれ、この森も物騒だね」
その声に視線を青年に戻すと、いつの間にか立ち上がり片手を前に出すように構えた彼は、不敵に笑っていた。
「……物騒なのはお前もだけどな、相変わらず」
「嫌だなあ、僕は君たちを守ってあげただけじゃないか。
そこの吸血鬼くんはともかく、君たち、あの魔物に気付いていなかっただろう?」
イビアさんのツッコミに、青年は今度はからから笑って言い放った。
どうやらあの魔物を倒したのは、この茶髪の青年らしい。
……よくわからないけど、魔物を一撃で倒すって、相当強いんじゃ……。
呆然と彼を見つめるオレたちに気付いた青年が、ああ、と手を叩いて微笑んだ。
「自己紹介が、まだだったね。……僕は、ラン。ランナイア・グロウ。
……よろしく頼むよ、新人“双騎士”諸君」
……そう名乗った青年に、オレの中にいる《彼》もまた、微妙そうな反応をした気がした。
Past.17 Fin.