深い水底に堕ちていくような感覚に、ふと目を開ける。
きらきらと輝くその場所に反して、唐突に誰かの泣き声が聞こえた。
――……たす、けて……――
それは、紛うことなき《彼》の声。
しかしそれが響いた瞬間、蒼に包まれていたはずの水中が、一気に真っ赤に染まってしまった。
(……あか、あか……!?)
オレは突然のことにパニックに陥る。水中に現れた赤はまるで……血のようだったからだ。
……赤は、すべてを奪う色。炎も、血も、オレのたいせつなものを……いつも。
――いたい、いたいよぉ……たすけて、おにい、ちゃん……っ!!――
泣き叫ぶ《彼》の声に釣られるように、オレの視界は閉ざされた……。
+++
――パチパチ、と何かが爆ぜる音が聞こえる。
暖かな空気が肺にいっぱい入り込んできて、オレは意識を取り戻した。
そこはどこかの街にある宿の一室のようだった。音がしていたのは暖炉だったようで、思わず反射的にそれとは真逆の方向を見た。
その先にあった窓からは、真っ黒な景色にふわりと白い雪が舞っているのが見える。
なるほど、どうやらここが深雪先輩が言っていた『年中雪が降り続いている街』らしい。
一通り辺りを見回して納得したオレは、部屋から出てみんなを探すことにした。
そういえば、いつも傍にいるソカルの姿も見当たらない。
ドアを開けると、ヒヤリとした空気に包まれる。素足で触れた床は、やはりこちらも冷たかった。
「おや、ヒアくん」
不意に聞こえた声に顔を上げれば、驚いた表情の深雪先輩が立っていた。
「お身体の具合は大丈夫ですか?」
「あ、はい。……ソカルやみんなは……?」
心配そうな先輩の問いかけに頷いてから、オレは相棒たちの行方を訪ねた。
「ソカルくんはずっと貴方に付いていたのですが……数時間ほど前に無理やり休ませたところです。
他の皆さんは、街を探索したり部屋で休んでいたりしていますヨ」
「……そっすか……。じゃあ、とりあえずソカルのところに行きます」
そう答え、相棒がいる部屋を教えてもらい歩き出そうとした瞬間、「あ、そうでした」と先輩が声を上げた。
「ヒアくんが眠っている間に、彼……朝くんも同行するということになりまして……。
彼が貴方に何かしようとしたら我々が責任を持ってお止めしますので、よろしくお願いいたしますネ」
「え、あ、はい……?」
深雪先輩から告げられた内容に一気に不安になる。
しかしまあ、先輩たちがどうにかしてくれるなら……と甘い期待を胸に、オレは先輩と別れてソカルの部屋のドアを叩いた。
……後であの朝という先輩とも話をしよう、と決心しながら。
――コンコン。
無機質なノックの音が廊下に響いて、程なくして木製のドアが開く。
中から出てきたソカルは、案の定驚いたような顔をしていた。
「……っヒア……!!」
「ソカル、心配かけてごめんな。……今ちょっと、いいか?」
「……うん、もちろんだよ」
安心させるために軽く笑みを浮かべれば、彼は頷いて部屋の中へ入れてくれた。
暖かな空気が、オレを包み込む。
「……ソカルさあ、アメリ、って知ってるか?」
「……アメリ?」
窓の傍に寄って降り続く雪を見つめながら、オレは唐突にそう切り出した。
ソカルが怪訝そうにこちらを見ているのが窓越しにわかる。
「……知ってるよ。よくクラアトの話で盛り上がったりしてた。
……彼女との記憶が、再生されたんだね……?」
「……うん。『オレ』は……クラアトはきっと、彼女のことが大切だったんだな」
オレにとって、藍璃が大切な存在であるのと同じように。
そう言えばソカルは、そうだね、とゆるく笑ってくれた。
「クラアトはよくアメリの話をしてくれたし……多分、好きだったんじゃないかな?」
『すき』。それはきっと、恋愛感情なんてものはとっくに通り過ぎた、切なくなるほどに純粋な好意だったんだろう。
記憶の中で感じたクラアトの想いは、どこまでも穏やかであったから。
「……なあ、ソカル。……アメリは……藍璃の前世、なのか?」
ぐるぐると考えていたその疑問を、オレはソカルにぶつけてみた。
クラアトがオレの前世なら、アメリもそうなのではないのか……そして彼女と親しく、また藍璃とも会ったことのあるソカルはそれを知っているのではないか、と思ったからだ。
「……そうだね。篠波さんはアメリと魂が同じだし……ただ……」
「ただ……?」
「……おかしいんだよね。記憶がないのは普通なんだけど……篠波さん、アメリの魂を半分しか宿してないんだ」
「半分……?」
気にはなっていたが、そのままローズラインに来てしまったので調べたくてもそれが出来ないのだ、と彼は言う。
魂が半分しかなくても、オレから見て藍璃は普通の人間と大差はなかったし、彼女自身の新しい魂で残りの半分を補っているから問題はないとソカルも言っているが、やはり気になるのはアメリのもう半分の魂の行方であった。
「まあ……篠波さん自身が特に問題なさそうなら、無理に探すこともないんじゃないかな。
変にアメリの魂を刺激するのもどうかと思うし……」
珍しく死神らしいことを言うソカルに同意して、藍璃のことも気にはなるが、オレはひとまず話題を変えることにした。
「……そう言えば、ソカル。オレ、あの朝って先輩と話をしようと思うんだ。
ちゃんと……知りたくってさ。《あいつ》のことも」
「……そう、わかった。僕も着いていくよ」
微妙そうな表情をしながらも、彼はあっさりと頷いてくれた。
正直言って、オレもあの人と話すのはなかなかに怖いので、ソカルが着いてきてくれるというのは情けない話だがとてもありがたい。
オレたちは部屋を出て、事前に深雪先輩から聞いていた朝……先輩のいるという二つ隣の部屋を訊ねた。
招き入れてくれたのはソレイユ先輩で、わざわざ悪いな、と声をかけてくれた。
「おーい、朝。ヒアがお前と話がしたいってさ」
ソレイユ先輩がそう呼びかけた先を見やると、朝先輩はベッドの上で蹲っていた。
再び名を呼ばれ顔を上げた彼の視線は、いつもの殺意と……ほんの少しの悲しみを湛えているように感じた。
「……大丈夫か、朝?」
「…………何しに来たんだ」
ソレイユ先輩の心配そうな声には答えず、彼はじっとオレを見つめる。
「え、いや、話をしたくて……」
「……話すことなんてない」
どこまでも冷ややかな音色で、朝先輩がぴしゃりと言い放つ。
隣でソカルがひどく苛立たしげに彼を睨んでいるのを抑えながら、オレは諦めずに彼を見据えた。
「あんたになくても、オレにはあるッス。
……あんたらが《彼》って呼んでるやつのこととか」
「……《彼》……?」
しかしその選択は間違っていたようだ、とオレは後悔した。
敵意を剥き出していた朝先輩の真っ赤な瞳が、《彼》という単語に反応して怒りと絶望を宿したことに気づいてしまったからだ。
「……《彼》に……会わせて。会わせてよ、ねえ! 君の中にいるんだろ!?
なんで……なんでなんでなんでなんで、なんで君なんだ!! なんで君じゃなきゃいけなかったんだ!!
教えてよ、ねえ!! 僕はもう必要ないの!? 僕の存在にはもう価値はないの!?
おしえて、教えてよ、ねえ、よ、る……《よる》、《よる》、《夜》……ッ!!」
取り乱したようにわあわあと泣き始めた朝先輩を見て、オレもソカルも呆然としてしまう。
ソレイユ先輩が慌てて彼を宥めながら、こちらを見て「ごめん」と困ったように微笑んだ。
「……こいつと話すのは、やっぱりもうちょっと後にしてくれるか? 相当錯乱してるみたいだしさ」
普段はだいぶ冷静なんだけどなあ、と彼の頭を撫でながら、ソレイユ先輩は語る。
まあ、この状態では確かに話なんて出来ないだろう。
オレはソカルと目配せをして、部屋を出ることにした。
「……ソレイユ先輩、ひとつだけいいッスか?」
「ん? なんだ?」
「……《夜》っていうのが……《彼》の名前、ですか?」
それは錯乱した朝先輩が発した名前だった。
問いかけた瞬間、ソレイユ先輩は痛みを堪えた笑顔で、そうだよ、と頷いた。
「……《夜》。それが《あいつ》の名前。
……朝にとって、一番大切なやつの……大切な名前なんだ」
+++
「……さて、どうする?」
廊下に戻ったオレとソカルは、顔を見合わせてお互いに首を傾げた。
そんなオレたちに、不意に誰かの声が届く。
「あっヒアさん……! 大丈夫ですか?」
「リブラ」
その声の方向を向けば、安心したように笑うリブラがいた。
彼女の温かい笑顔に、オレたちはほっと息を吐く。
「大丈夫。心配かけて悪いな」
「いえいえ。私たちよりソカルさんの方が随分と心配してましたし」
「ちょ、別にそれは言わなくていいだろ!?」
いたずらっ子のように微笑むリブラにソカルがわたわたと慌てているのを見て、オレは穏やかな気持ちになった。
仲間たちにも様々な表情を見せるようになった相棒に、心底嬉しく思う。
「それはそうと、ヒアさんたちは今からお暇ですか?」
「え、うん、まあ……どうしたんだ?」
ふとそんなことを尋ねてきたリブラにきょとんとすれば、彼女は窓の外を指差した。
「外へ行こうと思って……ナヅキさんを誘ったのですが、寒くて嫌だと言われてしまって。
ヒアさんとソカルさんがよければ一緒にどうですか?」
結局オレたちはリブラに誘われるままに、雪が降り続く街へと繰り出した。
宿屋の店主に借りたコートがとても温かい。
「それで、どこに行くんだ?」
「この先に、とある神様を祀る銅像があるんです。そこへ行ってみたくて」
白い息を吐く彼女が指差した先を見ても、街灯が点々と灯っているだけで何があるかさっぱりわからない。日が沈んでから随分と時間が経っているようだ。
……なんでこんな時間に行こうと思ったのだろうか。
そんなオレの疑問は、その場所に辿り着いてから解消されることになった。
銅像がある、という場所は宿から程近く、小さな広場になっているようだった。
暗くていまいち全体が見えない銅像は、所々錆びているようにも思える。
もっとよく見てみようと近づけば、その像の足元に誰かがいることに気がついた。
「……ディアナ?」
そう、そこにいたのは【神殺し】ディアナだった。広場に一つだけしかない灯りに、金糸の髪が揺らめいている。
「……やっぱり、ここにいらっしゃったんですね。なかなか戻ってこられないので心配していたんですよ」
リブラが苦笑いを作って彼に近づく。
どうやら彼女がここへ来たかったのはディアナを探していたかららしい。
「……この銅像は、【龍神】を祀っているものだと街の方からお伺いしました。
随分と古いもののようですし、誰が作ったのかもわからないそうですが……」
「【龍神】……ってディアナの友だちの……?」
以前リブラが伝え聞いたというディアナの過去に出てきた【龍神】を思い出せば、彼女は恐らく、と首を縦に振った。
彼女に倣ってその銅像を見上げれば、それは青年の姿を模ったものである、とやっと気付いた。
ディアナは未だに黙したまま、同じようにそれを見上げている。
「古いものっていうけど、ディアナの友だちなら時代的に合わなくないか?」
ディアナはオレたちと同年代みたいだし、と抱いた疑問を出せば、ディアナがやっとこちらを振り向いた。灯りの影になって、その顔は見えないままだが。
「……僕は……【創造神】の力で、様々な時代を渡っている。
だから、リシュア……【龍神】の死が、この世界にとってずっと昔のことだったとしても、何らおかしなことではない」
淡々と話ながらも、その声には痛みが宿っているように思えた。
そのまま彼は懺悔をするかのように、ぽつぽつと絶望を吐き出した。
「……殺したくなんて、なかったんだ。僕はもう……誰も殺したくなんてないんだ。
だけど、それが……【神】を殺すことが、僕の存在理由だから……リシュアとも……“紫”とも、約束したことだから……」
「ユカリ……約束……?」
「【神】を、殺すことで救う……その存在を、意味を、救う。……だから、僕は……――」
リブラが聞き返せば、彼はそう答えてくれた。……泣き出しそうな声で。
「……僕はどうすればよかったんだ……? 教えてくれ……《夜》……」
「……っ!?」
ディアナがそう呟くと、突然彼の真横に蒼い幻影が現れた。
黙って話を聞いていたソカルがすぐさま警戒し、リブラも驚いているのを見て、オレはその幻影が他の人にも見えていることを知る。
……その幻影は、いつも助けてくれる《彼》……《夜》の姿をしていた。
『……オレはね、ディアナ。きみに救われた人を知っている。
【神殺し】としてじゃない、他の誰でもないきみの存在を、大切に思っている人がいるのも……知っているよ。
【神】と戦い続けた先に、きみにとっての希望があるかはわからない……。でもきっと、答えは見つかるよ、この世界で』
《夜》はディアナにそう言ってから、こちらへと向き直った。
水面に映っているかのように、その姿はゆらゆらと揺れている。穏やかな深海の瞳が、印象的だった。
改めてじっくり見てみると、《彼》は朝先輩にひどく似ている。まるで……鏡に映った姿のように。
『……ヒアたちにとっても、それは同じこと。これは、過去を越える戦いだから……。
過去への答えは、きっと見つかるよ。……きっとね。
……ヒア、それから……ソカル。ごめんね、お兄ちゃんが酷いことを言って』
「……へ、お兄ちゃん……?」
唐突に振られた話題に反応できずにいれば、《彼》はゆるく微笑んで消えていった。……なんなんだ、本当に……。
「……帰ろう」
いつもの調子を取り戻したらしいディアナが、銅像に背を向けて歩き出した。
雪が降り積もった地面に、彼の足跡がくっきりと付く。
幽霊でも見たかのように唖然としているソカルとリブラに声をかけてから、オレも慌ててその後を追った。
――果てのない夜なんてない。朝は必ず来るから……。その先にきっと、答えがあると信じて……――
脳裏に響く《彼》の声。振り返り見上げた【龍神】の銅像は、どこか微笑んでいるように思えた。
+++
『……ヒアは確実に、きみと同じ力に目覚めはじめているみたいだね』
「そうみたいだね。
……ていうか、ぼくのところに来るくらいなら、彼のところに行ってあげてよ」
『……こわいんだ、まだ……。でもきっと、もうすぐ……――』
白い建物……“神殿”の中、赤髪の子どもに蒼い髪の少年が悲しげに笑みを向ける。
……それは覚醒へと至る邂逅。世界に散らばった【世界樹】の魂の欠片、その一つ。
【太陽神】はただ静かに、彼らの行く末を見守っていた……。
「そろそろ起きよう。……夜お兄ちゃん」
そして《彼》にも訪れる、朝焼けの時……――
Past.32 Fin.