赤かった。
一面に広がる赤い海に、オレは佇んでいた。
『……おとうさん、おかあさん……?』
誰もいない、静かな海。寒くて……でも熱くて、怖かった。
逃げようとしたが、足が動かない。足だけではなく、手も、顔も、何もかも。縛られたように、動かなかった。
どうしてこうなったのだろう? わからない。……わからない。
『たすけて……たすけて……!!』
叫ぶオレの手を、誰かが引っ張った。柔らかくて温かい、てのひら。そして、オレを呼ぶ声。
(ヒア!)
『緋灯!!』
『あ、いり……?』
藍璃。オレの幼なじみ。
そう認識した途端、真っ赤だった世界は真っ白な部屋へと変貌した。
白。オレの身体も、その白に包まれて……。
(一瞬過ぎった、赤い瞳は忘れたままに)
「っああああああああああああッ!!」
がばり、と身体を起こす。荒い息を必死に整える。
夢。何かとても……怖い夢だった。
思い出せないのは、思い出そうとすると恐怖で気が狂いそうになるから。
「ひ……ヒア、大丈夫……?」
慣れ親しんだ声が聞こえそちらを向くと、心配そうな相棒と仲間たちがオレをじっと見ていた。
「……えっ……あ……ああ、うん……。ごめん……大丈夫」
何があったんだっけ。
そう思って辺りをぐるりと見回せば、魔女ヘカトと戦った場所から動いていないことに気付いた。
川から聞こえる水の音に、気持ちが少しばかり落ち着く。
「……あれから、何がどうなったんだ……?」
「朝くんが魔女を倒したのは覚えていますか?」
首を傾げたオレに答えてくれたのは、深雪先輩だった。その言葉に頷いて、続きを促す。
「あの後、魔女の最上級魔法で傷を負った我々を、リブラさんが回復魔法で治してくれたんですヨ」
そう言われてリブラを見れば、疲れているのかぐっすりと眠っていた。
彼女の寝顔に「ありがとう」と小さく声をかければ、彼女が少し笑ったように見えた。
改めて仲間たちを観察してみると、皆どこかぐったりとしている。
中でもやはりというか何と言うか、ディアナの様子が気になった。膝を抱えて蹲って……泣いているような雰囲気だ。
「ディアナ、あのさ……」
思わず話しかければ、彼はそっと顔を上げた。想像に反して、その瞳は濡れていない。
そのままディアナはぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
「……紫は、僕の幼なじみだった」
その懺悔するかのような声音に、オレたちは黙って耳を傾ける。
「隔絶された故郷で……僕は独りだった。村人たちと会話することすら禁止され、誰も僕と関わろうとしなかった。
……紫以外は」
ディアナが語る過去は、リブラが伝え聞いたものと大差なかった。
ただひとつ、『ユカリ』という少女の存在以外は。
「紫は疎外され心を閉ざしていた僕に、積極的に声をかけてくれた。
名前のなかった僕に、『来夏』という名を与えてくれた。
人の温もりを、優しさを、教えてくれた」
だがそれゆえに、彼女は他の村人たちから反感を買ってしまったそうだ。
『貴方の名前は、「来夏」。夏に生まれたんだって、神父様が仰っていたのを聞いたことがあるの。
だから、“夏が来る”と書いて、来夏よ』
ふわりと微笑んだ彼女は、そう言ってディアナに名前を授けた。
もちろん、その名を呼ぶのは紫だけだったが……彼にはそれで十分だった。
『来夏、にげて。そして私のことは忘れて生きていくのよ』
それが彼女の最期のことばだった。
接触を禁じられていたディアナ……来夏と深く関わったことで、ユカリは罰を受けることになってしまった。そう……『死刑』という名の罰を。
燃え盛る炎の中で、ユカリは絶望する来夏に笑ってみせた。大丈夫だと、自分のことなど忘れて生きていくのだと。
『来夏、聞いて。聖堂の奥に、【神剣】デイブレイクがあるわ。
……それは貴方の剣。【神殺し】たる貴方のチカラ。
それを持って、この村から逃げて、お願い……!』
村の代表でもあった神父の住まう聖堂。ユカリに言われた通りに、来夏はそこから【神剣】を持ち出し……村から逃げ出した。
磔にされ炎に焼かれながらも来夏に微笑んでみせた、ユカリの最期を見届けながら。
そして、彼はユカリの最期の願い通り、『来夏』の名を捨て去ったのだと言う。
奇しくもその日は、目眩がするほど暑い……夏の日だったそうだ。
「……どうして、どうして僕なんかに関わったりしたんだ……どうして……紫……」
語り終えた後、当時を思い出してパニックに陥ったのか、ディアナはただ「どうして」と繰り返した。
自分さえいなければ、ユカリは死ぬことも魔女の支配下に置かれることもなかったのに、とさえ思っているのだろう。
(だけどそんなこと、誰がわかるんだ)
過去に起きた事象、それも「自分が生まれた」という出来事はなかったことにはできない。
そして、その先にある運命なんて、誰にもわかるはずがない。 ……【予言者】でない限りは。
そんな冷めた思考のオレを横目に、深雪先輩がディアナを落ち着かせている。
「……過程はどうあれ、魔女の企みは成功しちゃったみたいだね」
「……だな」
渋い顔で隣に来てそう呟いたソカルに、オレも同意する。
魔女の企み……『ディアナを再起不能にする』ということ。
結果として魔女は倒せたが、同時にユカリも失い……ディアナの精神にある程度のダメージを与えられてしまった。
今後しばらくは彼は戦力から外した方がいいだろう。それくらい、ディアナの受けた精神的な傷は深そうだと見てとれる。
「このまま【神】が現れないといいんだけどね……」
眠るリブラについていたナヅキが、誰ともなく独り言ちた。
まあ、それが不可能なのはわかりきっていることで。
……だから、不意に風が強まり草木がざわめいたことに、驚きはしたが動転はしなかった。
「こんにちは……忌々しい“双騎士”……」
風が止んで現れたのは、緑色の髪の少年だった。
禍々しい気配と共に、彼の背後には動物……いや、魔物たちが付き従っている。
「魔物……【獣使い】……? なるほど、【森神】アルティか」
銃を向けて彼らを睨み付けたソレイユ先輩に、アルティと呼ばれた少年は興味がなさそうに頷いた。
「……そうだよ。アイレス……セシリア……それと僕の部下、ヘカトの仇……討たせてもらう……!」
彼の言葉に反応した魔物たちが、オレたちに襲いかかる。
咄嗟に武器を構えてそれを躱して、オレは現状戦えるメンバーを確認する。
目を覚まさないリブラを守るのに一人か二人、戦意喪失しているディアナを守るのに更に一人か二人。
魔物の数はオレたちの倍はいるので、それ以上戦力を削るわけにはいかない。
「……ナヅキ! リブラを守ってくれ! 深雪先輩、ディアナのこと頼みます! ソレイユ先輩は深雪先輩とナヅキのフォローを!
残りは各自魔物の撃破と隙を見て【森神】とやらに攻撃を!」
「わかった!」
出した指示に各員が頷いてくれたのを見やってから、オレは隣のソカルに視線を移した。
「……ソカル、ディアナが戦えない今、【神】を倒すのはお前に任せたいんだけど……って何だよ、どうかしたか?」
そう指示を出したところで、彼がじっとオレを凝視していることに気付いて首を傾げる。
だが彼は、いいや、とかぶりを振って苦笑いを浮かべた。
「……こんな言い方したらダメだと思うけど……その、クラアトみたいだな……って思ってね」
「……へ?」
予想外の言葉に思わずキョトンとすれば、ソカルはゆるく笑ってから魔物に向かって駆け出していってしまった。
『クラアト』の記憶が完全に戻っていないオレとしては、彼の言ったことに疑問符を浮かべるばかりだが……そんなこと、今は後だ。
先に魔物と交戦を始めた相棒に続くように、オレも近くにいたウサギ型の魔物に剣を振るう。
ウサギ型、と言ってもオレの腰くらいのサイズがあるのでちっとも可愛くはない。
「はあっ!!」
ふわもこの見た目に反して意外と硬いデカウサギを退け、【森神】に顔を向けると、朝先輩が彼に斬りかかっていた。
援護をするために群がる魔物を切り捨て、先輩に駆け寄る。
「援護します!」
残りの魔物の相手をソカルとフィリに任せ、オレも剣を振りかざして【森神】に迫る。
しかし彼とオレたちの前に、突然木々が生えて行く手を阻んだ。
「うわっ……!」
木に剣を弾かれ、オレはバランスを崩しながらも何とか着地する
隣に並んだ朝先輩の視線が、すごく冷たい。
「……君の魔法であれを焼き払え。それすら出来ない足手纏いなら必要ない」
「っ……そんな言い方しなくたっていいだろ!?」
冷淡な命令口調に、思わず反発してしまう。
しかしキツい言葉ではあるが、間違ったことは言っていない……と思う。
魔法……魔法か……。
躊躇してしまうのはやはり、オレの魔法が自分の苦手な炎を司るから。
燃え盛るそれを前にして、平常心を保てる自信がない。
「……出来ないのなら、ずっとそこで立ち止まっていろ。……全く、なんで夜はこんな奴に……」
ぶつぶつと文句を言い続ける朝先輩に、なんだか無性に腹が立って……そして何より自分自身が情けなくて、オレは震える声で詠唱を始めてしまう。
「……――“灼熱の焔,万物を燃やしこの世を紅に染め上げよ……”」
「っヒア!? だめ……!!」
「アーくん……っ!!」
前にフィリから教わったことを思い出しながら、魔方陣を発動させた。
目の前が真っ赤に染まったところで、魔物と戦うソカルとフィリの悲鳴が耳に届く。
(怖くて仕方ないけど、だけどオレは……逃げたくなかった)
ディアナは逃げずに過去のトラウマに立ち向かっていた。
結果としてその傷を抉られただけだったが……それでも魔女と、ユカリと対峙する彼のその姿が、目に焼き付いて離れない。
「……――“『デシュエル・ラハブ』”!!」
呪文が口から漏れた瞬間、目の前の木々が赤く染まり燃え盛った。
程なくしてそれは燃え尽き、炎は鎮まったが……オレは思わず膝から崩れ落ちてしまう。
「……っ!! う、え……っ!!」
全て、燃えた。目前にあったものが、全て……。
『緋灯』
誰かの声が聴こえた。燃え立つ記憶の中で、優しく笑うひと。
落ちる感覚と、身を焼く熱。それから、それから……――
『自分を責めないでね、緋灯』
「か、あ、さん……?」
思い出したくない。それは、思い出してはいけない記憶。
(助けて、助けて……!!)
「……ヒア!!」
――ヒア!!――
二つの声が聞こえて、オレは意識を取り戻す。いつの間にか気を失っていたようだ。
ソカルとフィリが心配そうに顔を覗き込んでいた。
魔物たちは全て片付けたらしい。今は【森神】と朝先輩が戦っているとフィリが教えてくれた。
「ヒア、大丈夫? 無理しないで、ここで休んでて。……フィリ、ヒアを任せるよ、いいね?」
「は、はい……ってソーくん!! いま、今やっと僕の名前呼んでくれたですね!?」
「うるさい、いいから黙って従って」
「……はいです」
そんなソカルとフィリの漫才に、少しばかり気が楽になる。
思わず小さく笑えば、ソカルが苦笑いでオレの頭を軽く叩いた。
「……僕はアイツと一緒に【森神】を倒してくる。……ヒア、記憶を再生することになるけど……」
「……オレは、大丈夫。だから頼むな、ソカル」
「……わかった」
アイツ、と指差した先にいた朝先輩の元へ駆け出す相棒を見送ってから、オレはそっと目を閉じた。
未だに体が震えている。フィリが気遣わしげな視線を向けているが、それに応える余裕はなかった。
(……何があって、それは思い出したくない記憶となったのだろう?)
考えてはいけない、そうわかっていながらも……思考はどんどんと堕ちていく。底無しの沼のように。
――ヒア、だめだよ。思い出してはだめ。壊れてしまうよ――
《夜》の淡い声が、記憶の海に溶けていく。
だめだよ。何度も繰り返すその言葉が、水中に残響する。
気がつくとオレは、完全に意識を失ってしまっていた。
それに気付いたのは……砂の匂いに釣られて目を覚ました後だったのだが。
――『夕良 緋灯』の記憶は、思い出してはいけない記憶。
ここへ、オレが眠るこの場所へ……【魔王】の元へ、堕ちてきてはだめ。堕ちて、来ないで……ヒア……――
泣きそうな《夜》の声音に、大丈夫だと心だけで笑う。根拠なんてなかった。
ただ《彼》の泣き顔は見たくないと、ぼんやりと思っただけだった。
やがて瞳を開いて見たそこは、焼け爛れた戦場だった。
幾重もの遺体が積み重なるその惨状に立っていたのは……。