甘い花の匂いが、鼻孔をくすぐる。
ぼんやりとした微睡みの中で、その匂いが何か考える。
ええと、そう、こことは違う星に咲く花だ。
生まれ故郷にも自生していたのを覚えている。
幼なじみの少女が、その花の名を教えてくれた。 何と言ったっけ。
暑さが和らいだ秋の始まりに咲く、その、花の名は……。
「キンモクセイだよ」
不意に青年の声が聞こえて、ぱちりと目を開ける。
くすくすと楽しげに笑う親友の姿が、うたた寝から覚めた瞳に映った。
……どうやら、眠りながら口に出していたらしい。 無性に恥ずかしくなって、体を起こしてそっぽを向いた。
「ねえ、ほら。 きれいでしょ?」
彼はその手に持った枝に咲く、オレンジ色の花を見せてくる。 なるほど、先ほど夢心地に嗅いだ匂いだ。
「……どうしたの、これ」
「良い匂いだったからね。 チキュウって星に行って、貰ってきたんだ」
自慢げに笑う親友に、釣られて微笑んでしまう。 四季のないこの星で、彼は自分のために季節にまつわる品物を持ってくる。
それは花だったり、食べ物だったり、衣服だったり。
いつだったか、故郷には四季があったのだと話してから、彼はそうやって自分を楽しませてくれていた。
この小さな星には、自分と彼の二人きりだった。
星の大半を占める草原と、小さな森。 あとは海に囲まれていた。 それだけしかない。 それだけしかないから、いつも穏やかで静かだった。
ふたりだけの、小さな小さな世界だった。
追い出されるように故郷を出て、旅の果てにこの星にたどり着いた。
唯一の住人であった青年と意気投合した結果、受け入れられてもらえた。
彼がなぜ一人でこの星に住んでいるのかはわからない。
どこか他の場所で暮らして、もっとたくさんの人と触れ合えばいいのに。
前にそう提案したとき、彼は困ったような顔で笑って、首を振ったのだった。
他の世界に赴くのは構わないけれど、そこに住むのは嫌なのだと、彼は確かにそう言っていた。
自分たちは、似た者同士だった。
二人は肩を寄せ合い震えていた。 彼は自分の運命に、僕は自分の過去に。
二人以外の他者なんて必要ないと、全ての救いを拒絶した。
(それが、最悪の結末になるとは知らずに)
小さな星でも夜になる。 日がゆっくりと傾いてきて、吹き付ける風は冷たくなってきた。
寒くなってきたね、そう穏やかに笑う親友に、こくりと頷く。 もうしばらくすると、この空にはゾッとするほど綺麗な星たちが瞬くのを、知っている。
あれは死んだ神々の命だと語ったのは、目の前の青年だったか、それとも過去に亡くした幼なじみだったか。
「さて、と。 帰ろうか」
当たり前のように差し出された彼の右手に、自分の左手を重ねる。 じわりと温もりが伝わって、なぜだかひどく切なくなった。
夕焼けに照らされる彼の笑顔に呆れたような視線を向けることで、先ほどの感情を誤魔化した。
「……それ、どうするの?」
「そうだなあ。 部屋にでも飾ろうか」
親友の手の中にある、小さな小さな秋の香り。
……季節はこうして、廻っていくのだろう。 彼の手によって、季節のないこの星にもたらされるのだろう。
ほんとうは、季節にまつわる物なんてほしくなかった。
時間が過ぎていくことがわかる物なんて……ほしくなかったんだ。 ずっとずっと、このままでいたかったんだ。
だって、君は、君の命は……廻り来る春に、喪われてしまうのだから。
二人の星に広がる秋の匂い。 いつまでもそれが続けばいいと、僕は思ったのだった。